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自己肯定感高いですか?

自己肯定感を高めて行きましょう、とかって自己啓発本とかファッション雑誌の表紙でよく見る。(自己啓発本は読まないから、完璧な想像。でもファッション誌ではある。「女性として生きる私、プライド持っていこ」みたいな)

そもそも自己肯定感ってなんだ?

自己肯定感とは、自らの在り方を積極的に評価できる感情、自らの価値や存在意義を肯定できる感情などを意味する言葉であり、自尊心(英語: self-esteem)、自己存在感、自己効力感(英語: self-efficacy)、自尊感情などと類似概念であり同じ様な意味で用いられる言葉である。

個人的にはSelf-esteemという言葉をよく耳にする。

「自己効力感」はあまり耳馴染みがなかったのだが、調べてみると、こちらは自分の能力に対する認知。

自己効力感またはセルフ・エフィカシー(self-efficacy)とは、自分がある状況において必要な行動をうまく遂行できると、自分の可能性を認知していること。カナダ人心理学者アルバート・バンデューラが提唱した。自己効力や自己可能感と訳されることもある。

両親の教育方針がもたらした自己肯定感

私の両親の教育は、「子どものやりたいと思う気持ちを大切にさせてあげたい」というものだった。この、”させてあげたい”がポイントで、丸っきり突き放した放任、という訳ではなかった。

じゃあ、例えば何があったかと言うと、

幼稚園の頃には自分専用のまな板と包丁を持ち、サラダなんかは一人で作っていた。家族での食卓、子ども用のフォークとナイフを使い、ステーキを食べたりもしていた。

父母は、子どもの私を「ただ、体が小さい人間」と一人前に扱ってくれたイメージがある。

こうして育てられていくうちに、早生まれな事もあって体は周りより小さかったが、自信があったし、私は好きな事をやっていいんだ、やろうと思えば何でも出来る、という野望に溢れた幼児期であった。

乳幼児期から培われる好奇心の種を削がない為に、主に幼稚園の送り迎えをしてくれていた母親自身も苦労したと言う。「大体転入生がやって来ると、隣のクラスだろうが仲良くなって一日目から放課後遊ぶ約束を取り付けて来たのよね、あなた。向こうのお家は片付けをしたいだろうから、大体うちで面倒を見てたけど、お迎えの為に電話番号聞いたり、親もフレンドリーにならざるを得なかったわ」との事。

小学生の時の友達との関係性

小学4年くらいから卒業するまで体育があまり好きでなかった。特にどんくさい訳ではなかったが、すこぶるスポーツ児という訳でもなく、私はただ運動にそんなに興味を持てずにいた。

よく、覚えているのが、放課後、友達が数名でバスケットボールで遊ぶというのを「私はいいや、ここで絵描いてるね」と言って、近くに腰掛けて、ボールを追いかける彼らと話を楽しんだ。

他の子が「バスケしないんなら一緒に帰ろうよ」なんかと誘ってくれたりもしたが、私としては、それが良かったのだ。そこに座り、みんなとワイワイ話すのが好きだった。その時、だれ一人とゲームに誘って来ることはなかったし、私が「バスケなんかいいから、座って話そうよ」みたいな流れになる事もなかった。

そこにはお互いのやりたい事を尊重し合う共存があった。

2位のお前がいるから、1位になれる人がいる

小5の時の担任の先生の名言である。

なんというか、その言葉は、私の中にすうっと入って来て今でも時々思い出す。特に保育の現場で、人には苦手なものがあっていい。あるはずだ。でもその分、何か得意なものもあるはずだ。それを見つけること、楽しんで遊べる事を手助けしてあげたい、と思っている。

小学生高学年にもなると、塾に通い出したり、運動の区、市大会があったりと何かと競争心を高めることが多い時期だと思う。

私は運動会の順位付けを、それはそれでいい、と思っている。皆で手を繋いでゴールするならば、「早く走りたい」と思う気持ちや「早く走る為にはどうしたらいいんだろう」と研究したり、練習したり努力が実を結ぶ機会を子どもから奪うからだ。その過程は無くさないでもいいと思う。

その教諭が伝えたかったのは、「負けてもいい。負けてもよくやった、と自分を称賛してやれ」という概念だ。人間誰しも挫折を経験する、それを肯定的に捉える事を、彼は我々に教えてくれたのだ。

思春期、揺れるアイデンティティ

小学校の時にも、既に仲良しグループは出来ていた。いうなれば、これは保育士として保育園で働くなか、1歳児クラスでも男女問わず見られる光景だ。

中学になると、それが露骨に可視化され、どのグループにも属さずみんなとなんとなく仲良くする事が「悪」だという考えが私を苦しめた。

私は主に中学で(高校に入ってからも何度か)「Mayちゃんはどっちのグループに入りたいの?ちゃんと選んで」と言われて来た。

これは尋ねられると、本当に困る質問の一つである。(質問というより脅迫のような気もするが)私は次第に、こういう事を言ってくる友人から徐々に距離を置く、という方法を生み出したが、なんとも空しいものである。

ただ、こうした事を繰り返していくうちに、どこにいてもいいんだ、私は私、という価値観を肯定出来るようにもなった。私は高校時代から一人で飲食店でご飯を食べられたし、映画館に一人で行けた。人の目を気にせず、自分の思うままに生きることの必要性を知っていたのだ。

そして、私の一匹狼的な友達付き合いを尊重してくれる人々にも出会い(そして彼らも同じように他の友人と付き合っていた)以後、質の良い友人関係を築くことに成功している。

多感な思春期は友人付き合い、または恋人との交際が人間関係の全てだと思いがちである。彼らの世界は時に、とても狭く、儚いのだ。そうした中、心に揺らぎない芯があると強く立っていられることが出来る。他人にどう言われても自分を護る、その姿勢を貫いて欲しい。

そして若い時に、様々なフィールドに身をおく事も自己の形成に役立つだろう。部活、バイト、ボランティア、留学、習い事、近所のコミュニティ、親戚など。自分が輝ける地、自分を肯定的に見つめてくれる人に囲まれて過ごす事は心身ともに健やかな事だと思う。

「自己肯定感高いね」は誉め言葉?

保育園で働いていた時に、同僚の保育士から「May先生は、自己肯定感が高いね。親御さんに子どもの時から”いいねいいね”と言われて育てられて来たのでしょうね」と言われたことがあった。

私は「そうですかね、でも確かに”いいねいいね”と言って育てられましたね」と返した。

実家の母に電話をし、その件を伝えると母は「それ、生意気ね、って釘を刺されたんじゃないの?」と釘を刺して来た。

私は、彼女の性格や保育観から「誉め言葉」と解釈させて頂いたが、これを「嫌み」として解釈する事も出来るのだな、と自己肯定感の高い私は学んだのだった。

「自己肯定感が低い」は改めるべきことなのか

時々、Twitterにて在外邦人らが「外国に住んでいると自己肯定感、もしくは自己主張が強くないとやっていけない」「外国で成功する日本人は自己肯定感が高めだ」などという呟きを目にする。

ただ、ここまで言っておいてなんだが、私は、「自己肯定感が低いと悩む、その自己こそを認めてあげる事が自己肯定感なのでは?」と思っている。

私って駄目だな、でもそんな私も生きていて良い。私ももっと自信持って生きていきたい、でもそんな自信のない私も私。

そんな気持ちを大切にして欲しい。

ステキな話♡

この、自分を「宝物」と思える強さ。そして他者においても、「この人も、誰かの宝物なんだろうな」と、相手の人権を尊重して付き合う事を忘れないようにしたい。

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出典:

最後まで読んでくださり、ありがとうございました。

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