見出し画像

きっと、日本一の海の幸

新鮮なぶりが食べられるよ!と熱く誘ってみたら、彼女はあっさりこの地へとやってきた。地元の友人が多い関西からは絶妙に接続の悪いこの場所を訪れてくれたのは、結局彼女が最初で最後の人となった。

朝5時半に起きようと誓いあって床に就いたのに、ようやく起きたのは6時半だった。
ローカル線に揺られ、揺られ、終点の駅で降りる。駅から同じ道を歩く人たちを見て、おそらく目的地はみんな同じなのだろうと思う。だって平日の早朝なのだ。そこまでしてあの場所を目指さずしてどこを目指す、それほどの場所だということは私も噂で知っている。

ようやく目が覚めてきた友人と駄べりながら20分ほど歩くと、潮と魚の入り混じった独特な匂いが鼻をつく。やってきたのだ、港に。そして海に。

ここは市場に併設された食堂だ。私がこの地に来て以来、一度は行ってみたい場所だった。休日や昼間はとんでもなく混雑するというからどんなものかと中を窺ってみると、幸い私たちの席は空いていた。それでも平日の朝っぱらからこの席に着く人たちがこんなにもいるのかと、店内を見回し圧倒される。


忙しなく動き回る給仕さんに注文を伝えると、間もなくして目の前のガスコンロにどん、と土鍋が置かれた。漁師汁だ。
火をつけてしばらく待つと、ふつふつと沸き立つ泡とともに出汁の効いた香りがふわりと身を包む。

あらごと器によそって口に含むと、味噌汁の優しくて懐かしい味わいが、冷えた身体を芯からあたためてくれる。その頃にようやく、お待ちかねのお目当てが到着した。

そう、これを待っていたのだ。市場直結の海鮮丼! とれたて新鮮な魚たちが、これでもかというほど贅沢に敷き詰められている。まずはどれから手をつけようか。私は一番好きなものを最後に残しておく派なのだけれど、脂の乗った魚たちはどれもつやつやと輝いていて、どれをとっておきにすべきか迷いに迷う。

いや、迷うのは後回しだ。一種類につき切り身が複数あるのなら、最後の一切れずつになってから迷うことにしよう。そんなことより、私は彼らをできるだけ新鮮なうちに味わわなければならない。

まず口にしたのはいわし。私の知ってる鰯とは全く違った。脂の乗り方が異次元。そして甘い。生魚にこんなにも甘みがあるということを、恥ずかしながら初めて知る。ごはんは海鮮丼には珍しく酢飯ではないのに、甘いごはんと甘い刺身との組み合わせも絶妙だ。異世界に連れて行かれたかのような心地のまま、次へ次へと箸を進める手が止まらなくなった。

他にはしめさばたいの昆布締め、そして旬のぶりにたこといかまで添えられていた。
たこは歯ごたえが良すぎて、もはや食感がぷちぷち。たった一口のたこですら美味しすぎるってなんなんだ。ぷちぷちのたこ!!と叫びながら海鮮丼を頬張るのは、朝ののどかな食堂にはちょっとご迷惑だったかもしれない。

鰤は寒ぶりの時期を過ぎてはいたものの、期待を裏切らないさっぱりとした旨みに思わず唸る。そして鰤推しの彼女は、大好きな鰤をうっとりとしながら味わっていた。その表情だけで、ここに連れてきてよかったと思えるほどだった。

結局、締めを彩ったのは鰤の君だった。最後の一口がお腹に吸い込まれていくと、なんとも言えない虚無感と充足感という矛盾した感情に襲われる。まだないの? と誰ともなしに尋ねたくなる。もっと味わいたかったのに、あっという間になくなってしまった。きっとこういうものこそが、本当に美味しい食べ物と言えるのだろう。


食後は漁師汁の残りを啜りながら、しばらく無言で海鮮丼の余韻に浸った。一度食べたら忘れられない、と誰かが言っていたけれど、確かにその通りだ。海鮮が売りの北陸の、とれたてのてんこ盛りの魚たち。こんなの日本一の海の幸に決まっとるよね、とため息混じりにつぶやいた。

食堂を出ると、朝の青空が広がっている。一日のクライマックスのような食事をしたというのに、今日という日は始まったばかりだ。お昼は何食べる? せっかくだから写真撮ろ、と足取り軽く、私たちは初めての海辺の町を歩きだした。


この記事が参加している募集

#私の朝ごはん

9,509件

#おいしいお店

17,628件

ご自身のためにお金を使っていただきたいところですが、私なんかにコーヒー1杯分の心をいただけるのなら。あ、クリームソーダも可です。