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4年前はJKでした。

今、言わねばならないと思った。理由なんてなくても、とにかく今言えば勝ちだと思ったので言った。何をもって勝ちで何をもって負けなのかはさておき、これは言ったもん勝ちなのだ。

4年前はJKだった。もちろんハリーポッターの作者でも、“Just Kidding”(冗談だよ)と言いたいわけでもない。ただ存在するだけで日本中から崇められる、あの「女子高生」のことである。

今だってJDじゃないかお前、と思われるかもしれないが、JKに比べれば月とスッポンだ。いや、そもそも同類として扱うべきではない。
あくまでJKはJC,JDに先立つものであり、JCもJDも、所詮JKの威を借る狐にすぎない。共通点は若い女であることくらいで、JKの持つ絶妙な成熟度と幼さのバランスが織りなす希少価値はJKにしかない。JCじゃ若すぎるし、JDじゃ大人すぎる。だからJKは、唯一無二なのだ。

そんなJKだった時代が、私にもあった。とはいえ世間一般的なイメージとしての「セーラー服(あるいはブレザー)を着て放課後はスタバのストローを咥える系キラキラ女子高生」からは到底かけ離れていた。いわゆる芋だ。しかも制服はセーラー服どころかブレザーですらなかった。
高校時代の記憶といえば、毎日ひっきりなしに続く小テストと無限に積み重なる課題に追われ、暗くなるまで楽器を吹いていたことくらいだ。吹奏楽部としての思い出は多少キラキラして見えるだろうけれど、キラキラしているのは楽器であって私ではない。

忙殺されているうちに3年間は通り過ぎていた。卒業式の日には、JKらしいことなんもできんかったな、と同じく芋の友達同士で笑った。スタバのJKどころかマックのJKにもなり損ね、放課後は参考書を片手に電車で直帰していた仲間だ。たぶん、ちょっと、涙が滲んでいたと思う。


当時、私はスマホで写真を極めることにハマっていた。写真に憧れを抱いたもののカメラに費やすお金も時間もない高校生にとって、手軽に、そのくせそれなりに写真が撮れるスマホは恰好の相棒だった。

その頃撮り溜めた写真をnoteに共有したら、現在進行形でそれはもう多くの方に使っていただけている。考えてみれば、現役の学校の写真を撮りに行ける機会なんてそこの学生くらいにしかないのだから、案外貴重なものを残すことができたのかもしれない。

これは全て受験期の頃に撮った写真だ。部活を引退した私は家で勉強できるはずもなく、土日も開放されている学校にせっせと通っていた。他の生徒は塾の自習室にでも籠っていたのだろう、なんと教室は私で独り占めできた。

決して真面目な受験生だと思わないでほしい。普通の受験生は、一人なのをいいことに教室で撮影大会なんか始めない。挙げ句の果てには変なアングルを極めたりなんかもしない。

大の女子高生がこの写真を撮っている絵面。ぜひとも想像しないでほしい。
ただこの写真もかなり人気があって、他に共有した写真も合わせると合計で800回ほど画像を使っていただけているらしい。血の滲むような努力(?)も誰かの役に立てているのなら、JK冥利に尽きるというものだ。……特に意味はないです、言ってみたかっただけ。

あの頃はモラトリアムの始まりで、周りの“普通”に染まる自分とそれに抗いたい自分とで葛藤していたのを、よく覚えている。だから、せめて写真だけは変なことがしてみたかった。飲みかけのタピオカ、変なポーズをとる友達、電柱の根元。普通だけど普通じゃない何かを、私はずっと求めていた。その記録はちゃんと、私の手元に残っている。

何気なく共有したものだったのに、あの頃何かに逆らいたくて撮ったものがこうして、名前も顔も知らない誰かの言葉の助力となっている。とっくにJKではなくなったけれど、JKだったかつての私がようやく今、輝けているような気がする。

4年前の私は、けっこういい仕事をしてくれたのかもしれない。


ご自身のためにお金を使っていただきたいところですが、私なんかにコーヒー1杯分の心をいただけるのなら。あ、クリームソーダも可です。