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「教育」の話。

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記事一覧

「誰かと相談してはどうか?」

8年前の今日に別府で約20年ぶりに再会できた中学校時代の恩師。 小・中・高校時代を生きた中で、私に「誰かと相談してはどうか?」と冒頭の言葉をかけてくれた唯一の教師です。12年間、学校教育を受けていながら現在でいう「合理的配慮」がなかったために教師全員のことばを知ることができませんでしたが、冒頭のことばは、私に語ってくれた数少ないことばの1つであり、今でも鮮明に覚えています。 中学校時代は自殺を何度も考えており、思い詰めていた私の表情に気づいてくださったのか、昼休みだったか

ろう学校における「震災教訓の継承」。

東日本大震災10年目を迎えます。 10年目になると、東日本大震災のような震災が起きた時に私たちはどのように対応していくことが大事になるのか、といった「震災教訓の継承」のありかたがますます重要になってきますね。 そこで、これまで把握してきたろう学校(聴覚支援学校)における防災・減災の取り組みや私が実践した防災授業の事例などから、ろう学校における「震災教訓の継承」について大事なことは何かを考えてみたいと思います。 児童生徒にとってろう学校における生活空間は、学校(校舎)と寄宿

自閉症スペクトラムの男児と先生が紡いだ小さな物語。

「ことばを身につける」とはどういうことだろう。 様々な障害があり、ことばを身につけることが困難とされている子どもたちと細やかで丁寧なコミュニケーションを実践する。 その実践には、私たちにとってもいわゆる言語獲得も含めて「ことばを身につける」ことを考える上で大切なことがたくさん隠されているように思えてならない。 そう考えさせられるエピソードを1つ紹介したい。それは自閉症スペクトラム(ASD)の男児と学校の先生が紡いだ小さな物語である。 ある特別支援学校でASDの小学生(K

人の行動の機微に添うと新たな対話が開かれる。

ミカンが大好きな、ダウン症のろう女児Aちゃん。 お母さんにミカンの皮を剥いてもらって身を一房ずつ美味しそうに食べます。Aちゃんは、お母さんがミカンの皮を剥いている様子をじっと注意深く見ています。剥いてもらったミカンの身が目の前に来るのをただ待っているのではなさそうです。お母さんは笑顔でミカンの皮を剥いてはAちゃんに渡すということを続けます。 私は、お母さんに、Aちゃんは食べたいだけでなく剥きたいようだ、剥かれていないミカンをAちゃんに渡してはどうかと提案します。お母さんは

ろう者の感覚が生み出す音楽。

「LISTEN リッスン」。これは、ろう者の音楽を表現したアート・ドキュメンタリー作品。映画監督はろう者2名が共同監督。スタッフ・出演者のほぼ全員もろう者。2016年に制作し、全国各地で上映されるたびに話題を集めました。 同作品のオフィシャルサイトではこのように述べられています。 映画監督である牧原依里は、これまで視覚や振動に工夫が施された“聴覚障害者向け”の音楽に心を動かされることはなかった。むしろ、無音で鑑賞するミュージカル映画のダンス、オーケストラの指揮者や演奏者の

ろう・難聴学生が「目」の健康を保つための6つのポイント-オンライン授業の受講に向けて-

はじめに 新型コロナウィルスへの対応のため、教育機関でオンライン授業が行われるようになりました。  ろう・難聴学生にとって、オンライン授業は、デジタルデバイス(ノートパソコン、タブレット、スマートフォン)だけで講義の映像や遠隔情報保障(パソコンノートテイク、音声認識)を見続ける状況が多くなります(図1)。 図1 現地での授業とオンライン授業の違い  音声を聞きながら必要な時に画面を見ることができる健聴学生と比べて、デジタルデバイスを長時間凝視することは、「目」に多大な負担

言葉。

死の床にある人、絶望の底にある人を救うことができるのは、医療ではなくて言葉である。宗教でもなくて、言葉である。 これは、哲学者の池田晶子が、言葉の秘儀に触れて書いたものである。ここでいう「言葉」とは何だろうか。その人に会う前に、すでにその「言葉」が存在しているわけではない。しかし、医療や宗教の世界には数多の「言葉」があり、これらは医療や宗教の世界を生きた何者かによって作られている。ところが、そうではなくて「言葉」だという。 もし自分がその人に会うとして、医療や宗教の世界に

デフフッドを導入したろう教育の実践。

デフフッド(Deafhood)。 この用語は、生まれつきのろう者(ネイティブサイナー)であり、イギリスにあるブリストル大学ろう者学センターの教員を務めていたパティ・ラッド(Paddy Ladd、ろう文化の研究で博士号を取得)が作ったものです。 彼は、ろう児・者のことを、外の世界に生きる他者(マイノリティ・マジョリティの両方)と対話し、またマジョリティとしての聴者とマイノリティとしてのろう者との間にある社会的・歴史的な物語とも対話し、そうして自己との対話を深めていくことで、

「ろう重複障害」における教育実践の探求。

ろう重複障害。 このことばは、聴覚障害と他の障害を併せ有する状態を指しています。ちなみに、聴覚障害と視覚障害を併せ有する場合は「盲ろう」といいます。 重複障害というと、単純に複数の障害を組み合わせたものとみなされがちなのですが、そうではないのです。障害が重複していることで、一人ひとりに新たに複雑で重層的な課題状況が生まれているのです。 ですから、聴覚障害と重複している別の障害のそれぞれに対する教育が提供されれば大丈夫だという単純な話ではないのですね。例えば、聴覚障害教育

ろうの子どもたちが数学者になる手話。

学校教育は「自分探し」をする文化的な実践の場として考えられています。 例えば、算数・数学の授業であれば、子どもたちにとって自分たちは「数学者」になれるかといった「自分探し」を実践します。もちろん、職業としての数学者になるのではなく、授業のなかで算数・数学の世界や文化にふれて、これは何?、それはどういうこと?、とその世界や文化を吟味し、自分自身がそれを使う人=数学者になっていくという意味です。 算数・数学の授業では、素数、因数分解、積分などのように普段聞き慣れず、かつ非常

スイカ割り-同化モデルと共生モデル。

これは、私が大学1年の時に経験したエピソード。 ある県の難聴児を持つ親の会の1泊夏季研修会にボランティアスタッフとして参加した。そこで、同化モデルと共生モデルの違いについて深く考えさせられた出来事があった。 夏といえば、スイカ割り。聴こえない子どもも聴こえる子どもも参加していた。スイカ割りは、目隠しをした子どもに周囲がスイカのある場所まで案内し、子どもはその案内を手がかりにドキドキワクワクしながらスイカのあるところへ歩を進めていく。 スイカ割りでは、早くスイカを割りたく

教科学習と手話の話。

※教育実践に関わる専門的な話です。 1993年3月に文部省が「聴覚障害児のコミュニケーション手段に関する調査研究協力者会議報告書」を発表し、そこで手話に関する見解が公的に初めて示された。手話の有用性にふれつつも、学校で使われる手話、特に教科指導で使われる手話についての研究を進めることの必要性を指摘している。この内容は高等部に限定して述べられているけれども、小・中学部にも共通していえることと思う。そして2005年の日本の聴覚障害教育構想プロジェクト最終報告書では、教科手話

「エンパワメント」につながる聴覚障害学生セルフヘルプ活動とは?

宮城教育大学大学院修士課程に入学した私が1999年度から取り組んだ聴覚障害学生セルフヘルプ活動の話です。 同年度に、2つの学生団体を設立しました。1つは、障害学生支援になかなか着手しない宮城教育大学を変革することを目的とした「情報保障の会」。もう1つは、宮城県内の聴覚障害のある高校生・大学生のエンパワメント実践を目的とした「宮城県聴覚障害学生の会」です。 当時の聴覚障害学生は、長年の口話法主義によって親との信頼関係への“諦観”、教育機関や公共機関等の情報にアクセスできない

聴覚障害児にとって「聞こえる子ども」の存在とは?

このタイトルは、私が大学生の時に「宮城県難聴児を持つ親の会」からのご依頼で寄稿したものです(宮城県難聴児を持つ親の会 機関紙「坂道」 第78号, Pp.8-9)。 寄稿したきっかけは、当時の親の会に所属していた親御さんの方々との語り合いで「聞こえる子ども」との関係への捉え方に気になることがあり、浅学非才の身でありながらしかし勇気をもって書いてみたものです。 以下の文章に友達Aが登場しますが、彼のことを非難するものではなく、彼とつながれたことに感謝しつつも、当時のインテグレ