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教科学習と手話の話。

※教育実践に関わる専門的な話です。

1993年3月に文部省が「聴覚障害児のコミュニケーション手段に関する調査研究協力者会議報告書」を発表し、そこで手話に関する見解が公的に初めて示された。手話の有用性にふれつつも、学校で使われる手話、特に教科指導で使われる手話についての研究を進めることの必要性を指摘している。この内容は高等部に限定して述べられているけれども、小・中学部にも共通していえることと思う。そして2005年の日本の聴覚障害教育構想プロジェクト最終報告書では、教科手話語彙の整備の必要性を指摘し、教科手話語彙に関する書籍も出されている。

しかし、教科学習において必要なコトバが「語彙」だけかというとそうでもない。語彙だけわかればよいというものではない。教科学習には「教科書」がある。教科書は、短い内容で何度もやりとりして内容を共有する日常会話と違って、様々な概念や事象同士を関連付けた文章から、学習する語彙の概念や用法などを学ぶ。だから「語彙」だけでなく「文法」や文同士の構造を作る「談話」なども使える必要がある。そう考えると、教科学習における「手話」について一歩進めて考える必要が出てくる。

ここで、もう少し日常会話と教科学習の違いを説明しよう。

例えば、聴こえる子どもが日本語を使って生きる場合。

日常会話では、日本語の文法や談話などの構造をいかに用いるか(簡単に言えば“表現のカタチ”)というよりも、いかに内容や意図が伝わるか(簡単に言えば“表現されるナカミ”)ということが重視されるので、お互いに質問や確認をして補い合いながら内容を共有したり展開していく。こうした能力は日本語だけでなく他の言語にも観察されており、心理学の世界では「生活言語」あるいは「一次的ことば」といわれている。

教科学習で、ある教科の用語の概念は何か、どのような事象を指すのか、また概念同士、事象同士の論理関係・因果関係はどのようになっているのかなどを伝えるためには、日本語の文法や談話などの構造(表現のカタチ)をいかに用いるのかを「教育的視点」で注意深く考えて使わなければならない。そうした表現のカタチを通して、子どもたちは各教科の世界で先人の文化に出会い、対話し、その文化を生きる主体になっていく(その意味で教科学習とは「文化的実践の場」ということもできる)。

だから学校の教科書(日本語で作られたもの)は、概念や事象等を学ぶために、日本語の文法や談話などの構造を教育的な視点でどのように用いるのかを幾度も吟味を重ねて作られている。

聴こえる子どもたちは、その教科書を何度も読み解いたり、その教科書の内容を教材研究した先生が加えた新たな教材と併せて考えたりする。そうして子ども自身が用いる日本語もより質の高い水準で用いるようになっていく。例えば、どのように論理的に考えているのかを日本語で表現できるようになる。こうした能力はやはり日本語だけでなく他の言語にも観察されており、心理学の世界では「学習言語」あるいは「二次的ことば」といわれており、論理的に考える力などは幼稚園期後半から身につけていく。ちなみにその定義や関連する事象の解明について現在も研究が続いている。

こうした能力は、教科学習という学校空間を超えて、自分の生きる世界で、自分自身の在り方や生き方(「自分探し」や「アイデンティティ」)を考える時、感情や感覚だけでなく、自分に関連する様々な事象群を論理的に関連付けて自分はどのように生きていくのかを探求することを支える力の1つになるかもしれないと考えている。

さて、聴覚障害のある子どもたちのなかには、補聴器や人工内耳の現行技術だけで音声日本語を聴こえる子どもと同じ水準・条件で聴き取ることは難しい(個人差もある)。そのため子どもたちは、日本語と手話の両方を使って生きる世界の住人になる。

赤ちゃんの時から日常生活で会話する能力を身につけることができるように、1990年代から全国各地のろう学校は早期に手話を導入して親子コミュニケーションの形成を支える教育実践を重ねてきた。長年、手話の使用を禁止してきたろう学校が手話の導入に踏み込んだ理由は、手話言語学や手話言語発達の研究が進み、子どもたちが手話の単語、文法や談話を獲得していることが明らかになってきたから。それも意図的な指導や訓練ではなく、手話を用いる大人(親、教員など)との日常的なやりとりを通して。ただし、手話をただ使えばよいのではなく、子どもの興味関心の内容を捉えて、必要な係わりを考えて係わることが求められるけれども。これは日本語を用いる場合も同じこと。

そして、子どもたちが教科学習の場で学ぶことになった時に、これまで身につけてきた手話を「どのような目的でどのように用いるのか」が課題になってくる。ところが、手話による各教科の教科書がない。しかも、学校教員も、子どもたちが各教科の概念や事象などを学ぶために手話の文法や談話などを「教育的視点」で注意深く考えて使わなければならないのに、どのような視点や手立てが求められるのかについて十分に検討されていないのが現状。

日本では、教員養成課程で教育的視点でいかに手話を用いるのかを学ぶ研修の体制があまり整備されていない。聾学校現場の教員研修でも、教員の勤務実態に関する調査研究では、教員における手話の習得は「現場での心がけや努力でどうにか出来るレベルを遙かに超えた問題」であり、「必要なのは予算的裏付けを伴う、国政レベルでの制度の改善」が求められる課題との指摘がある。

国外の動向を見ると、例えば、デンマークでは、聾学校に配置後3年間は担任になれず、教員の助手 (アシスタント教員)として研修を受ける。そこでは550時間の手話研修を含む 750 時間の研修が用意されている。こうした教員養成・研修の環境整備は、日本では長年続いている最重要課題。ろう学校に勤務しているろう者教員や教員養成大学教員である私は、自分も含めて教員たちのために何ができるのかを考えて動くことが求められる。

ところで「教育的視点」で手話を使うというのはどういうことだろうか。具体的なイメージが持てるように1つの事例を挙げよう。社会科の公民で「司法」という概念を学ぶとする。日本語の公民教科書では、このように日本語の文法と談話などを活用して「司法」の概念が述べられている。

私たちは、憲法によって基本的人権が保障されています。しかし、例えばある本に私たちのことが書かれ、プライバシーがおかされたとします。出版社も表現の自由を主張すると、権利と権利の対立が生じます。このような対立は、憲法や法律によって公正に解決することが必要です。そのはたらきを司法(裁判)といい、裁判所によって、原則として公開で実施されます。私たち国民は、権利がおかされたと考えたときに裁判を受ける権利が、憲法によって保障されています。(「社会科 中学生の公民:より良い社会を目指して」, 帝国書院, 78頁)

「司法」の概念について、「憲法(法律)/裁判所」、「私たち」「出版社」の3つの立場をあげ、各々の立場が相手に対してどのように関与しているのかについて両者間の関係構造が把握できるように日本語の文法や談話などを使うと、その一例として上記のような文章になる。もし不適切かつ不十分な点があれば改訂される。そうして吟味が重ねられている。

一方、手話の場合は、どのようにやるのだろうか。その一例として以下の動画のようになるだろう(動画のモデルは中学部社会科を担当しているろう者教員の方でご本人の許可を得て公開)

この動画では、手話の文法や談話などが使われている。例えば、文法的意味を有する頷きで区や文の区切りを示す。3つの立場に関わる事象と概念のつながりがわかるようにそれぞれの立場を必要な空間に一貫して配置する(下の画像を参照)。文法的意味を有する視線や身体の向きの変化(Referential Shift)で様々な立場同士の関係(受身、使役など)を示す。WH分裂文で文中の単語(今回は「司法」)を強調する(例えば、キーワードになるもの)。

ここで教育的に重要なのは、単に手話表現が「わかりやすい」とか「うまい」とかそういった次元で見るのではなく、どのような教育的視点で手話の文法や談話などを使っているのかに注目すること。そうした視点と手立てを収集・蓄積して、各教科の手話教材の質を高めていくことが必要になるのではないか。手話を学ぶ教員たちとの協働も欠かせない。

ここで「教材」とは何か考えてみよう。次のような考えがある。「ひとつ何かの材料が人と人との間に挟まり、その材料のおかげでその人と少し話ができる。この人と係わるのが難しいとき、あるいはその人ともっと話をしたいとき、どんなふうに話をすることができるか材料を考える。教材とはそういう話をするための工夫だと思います。」。子どもたちと教員にとって、現行の日本語による教科書といった「教材」ではお互いにその教科の内容やその背景にある文化について「話」をすることが難しい状況がある。だから、どのようにしたらそんな「話」ができるのだろうか。上記の動画は、それに対する1つの考えを示すものだと思う。つまり、教員が吟味を重ねて作られた手話による社会的事象・概念に関する表現もまた「教材」であるといえる。教員のことば(教育に対する真摯な態度、教員として自己変革を恐れない生き方など)もまた「教材」になる。子どもたちはおかげで「社会」を熟知している教員と、社会的事象・概念に関する「話」をもっとすることができ、より深くかかわることもできる。

こうした「教材」が蓄積され、いずれは手話による教科書あるいは教員研修用の手話教材の開発につながればと思う。

また、これらがきちんと「教材」教材として教科学習の場で機能するためには、子どもたちの手話を主とする発信から、子どもたちはどのようなわかりかたをしているのかを教育的視点で観察して、状態像やニーズを適切に仮定することも欠かせない。こうした観察の視点や手立てについても残念ながら実践と研究が充分に蓄積されているとはいえない。

このように教科学習で手話を用いて教育実践することを考える時、教育的視点から、①子どもたちの観察から状態像やニーズを仮定すること、②子どもたちのニーズを踏まえて各教科の概念や事象が把握できるように手話の文法や談話などから必要なものを取り出して使うこと、の2点がまずは重要だろうと思う。これは、手話に限らず、日本語を使う場合においても同じこと。

ちなみに教科学習に対する私の願いは、子どもたちが、こうした教科学習を通して、各教科の世界や先人の文化と対話し、その世界や文化とどのようにつながって生きていけばよいのか、自分探しを実践する人になっていけること。子どもたちがそんな体験をできる教育実践の仕事を私たちはしていきたい。