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言葉。

死の床にある人、絶望の底にある人を救うことができるのは、医療ではなくて言葉である。宗教でもなくて、言葉である。

これは、哲学者の池田晶子が、言葉の秘儀に触れて書いたものである。ここでいう「言葉」とは何だろうか。その人に会う前に、すでにその「言葉」が存在しているわけではない。しかし、医療や宗教の世界には数多の「言葉」があり、これらは医療や宗教の世界を生きた何者かによって作られている。ところが、そうではなくて「言葉」だという。

もし自分がその人に会うとして、医療や宗教の世界にある誰かの「言葉」を借りて、その人の前に持ち込んだとしたらどうなるだろうか。その「言葉」は、果たしてその人の心に伝わり、響き、救うものになるだろうか。「言葉」を借りる時、その「言葉」にはどういう意味があり、その人にとって今なぜ必要なのかを探求せずに、何より「自分自身」を通さないまま、その人に伝えるということになりはしないだろうか。

むしろ実際にその人のいる場に踏み出して対面し、その場で自分とその人との間にあるものを感じ、考えることで、お互いの関係において、その人にとって本当に必要な「言葉」、本当に大切な「言葉」が現れてくるのではないか。それは、その人を前にして自分はどうするかという問いかけに応じた結果として。

精神科医のV・E・フランクルは、人間とは「問う存在」ではなく「問われる存在」なのだという。自分が人生とは何か、生きる意味は何かと問う存在ではなく、自分自身が人生から問われている存在として捉え直し、その問いに応じることが重要だという。問う行為よりも応じる行為に自分自身がある。

冒頭の人と対峙した時、その人を救ってやれる「言葉」は何だろうと外の世界にある言葉群からそうした「言葉」をやみくもに探すかもしれない。しかしここで、自分自身はその人との関係において問われているのだと自覚し、どう応じるか探求する。そうして探求によって現れた「言葉」は、その人を救う力を秘めたものになるだろう。たとえどのような「言葉」であろうと、その人の間ではとても価値があるものになるはずだ。

そうした「言葉」の探求は、冒頭のような人だけでなく、困っている人、失意の底にある人との間でも同様にいえることだろう。「言葉」が洪水のように氾濫している現代社会において、私たちは、いつしか「言葉」とはそういうものだと忘れてしまってはしまいか。

私たちは、そういう人とともに「言葉」になっていない大切な何かを「言葉」にし、「生」をわかちあう対話をしているだろうか。