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ろうの子どもたちが数学者になる手話。

学校教育は「自分探し」をする文化的な実践の場として考えられています。

例えば、算数・数学の授業であれば、子どもたちにとって自分たちは「数学者」になれるかといった「自分探し」を実践します。もちろん、職業としての数学者になるのではなく、授業のなかで算数・数学の世界や文化にふれて、これは何?、それはどういうこと?、とその世界や文化を吟味し、自分自身がそれを使う人=数学者になっていくという意味です。

算数・数学の授業では、素数、因数分解、積分などのように普段聞き慣れず、かつ非常に抽象的な手続きや思考を意味する専門用語が多いものです。また、「引く」のように日常の生活でも登場しながら、算数・数学で特別な意味合いを持って使われる単語もあります。そうした特定の言語使用も、その世界や文化の特徴であるといえます。

さて、乳幼児期から手話で会話する能力を身につけてきたろうの子どもたちが、算数・数学の授業でそうした特定の言語使用ができるようにする際に、どのような言語を用いるのでしょう。

日本の場合、算数・数学の教科書は、言うまでもなく日本語で作られています。これは、日本語を乳幼児期から獲得し、それで会話する能力を身につけていることを前提に作っているものです。ろう児は、日本語による特定の言語使用ができるようになるための教育を受けますが、同時に、ろう児が母語として用いている手話も用いて特定の言語使用ができ、自ら考えるためにその言語を操ることができるようにする教育の機会も大切なことと考える必要があるでしょう。

米国の教師教育と数学教育の第一人者であるM・ランパート(1989)は、「数学とは、教師や教科書の著者にとってだけでなく、それを使う人にとって意味をなすべき思考と行動の方法であるとの観念を伝えること」 と話しています。そのために教員は、「すべてを知っている権威者(all-knowing authority)」として子ども一人ひとりに一方的に教授するのではなく、子どもたちとともに問題に立ち向かう「数学的共同体の代表者(representative of the mathematical community)」となることが重要と考えられています(Schoenfeld, 1992)。

そう考えると、教員は、手話を用いるろうの子どもたちにとって操作しやすく、文や文章レベルでも数学的な思考が円滑にできるような手話表現を吟味する必要があります。しかも、子どもたちとともに問題に立ち向かう共同体を作って子どもたちと数学的な議論をする必要もありますから、子どもたちにとってお互いに議論するのに適した手話表現であることも重要です。これは、算数・数学の用語を単語レベルで手話表現を考えることを意味するのではないのです。そもそも、特定の言語使用とは、単語レベルだけではなく、算数・数学の概念を表す様々な用語を取り込んで操作したり分析したり統合したりして思考し、その思考内容を特定の文や文章のレベルで話したり聞いたりするのですから。つまり、子どもたちが「数学的共同体」を形成して、教員とともに数学の問題に立ち向かうために、どのような手話を用いるのかが課題になるのです。

しかし残念ながら、単語レベルで教科用語の手話表現を収録した辞典はあるものの、前述したような視点で収録したものはありません。

そこで、まずは現在勤務しているろう者の教員が授業で行っている手話談話の資料を広く収集し、ろう者教員が具体的にどのような観点で手話表現を決めて実践しているのか、多くの事例から学んでみることが必要になります。

以下の動画は、中学校数学Ⅰの「立体の表し方」について、数学科を担当しているろう者教員が手話で説明しているものです。この教員の手話動画には、手話を用いるろうの子どもたちが「数学者」として数学的な議論や数学的な探求ができるような表現の工夫がちりばめられています。

モニターに表示されている「平面図形を、ある直線(回転軸)のまわりに回転させてできる立体を、回転体という」といった数学的事象について、聾の教員はいかに手話表現を吟味して語っているのかを見てみましょう。ただ、見るだけではどのように表現しているのかわかりにくいと思うので、最初の25秒間のみ説明します。

①画面内の説明する箇所を、<線>による指差しで示す。
②指文字で「ジク」と示し、日本語で表記された「軸」を、<丸>による指差しで強調して示す。
③指から肘までの部分を縦にして停留させることで、/軸/があることを示す。そこを中心に回転する何かがあることを<線>による指差しで示し、空間で“残像”になった軸は、回転するものの真ん中にあるのだと説明する。
④画面内の図(長方形)を<点>による指差しで示す。
⑤空間に③の/軸/を再度示し、両手の人差し指で/長方形の輪郭/を示す。なお、/長方形の面/は別の表現になり、⑧で示されている。
⑥一旦示された長方形の3辺(回転軸となる1辺を除く)の“残像”を人差し指でなぞる。
⑦“残像”になった長方形の1辺に人差し指を立てた左手を置くことで、/長方形の1辺/から/軸/へと意味を転移する準備をしている。
⑧この左手の人差し指に、/長方形の面/を示す右手の手型をつける。ここで画面に表示されている、長方形の面と軸がつながった図と合致する。
⑨左手の人差し指は空間に停留させ、その人差し指を軸に/長方形の面/を表す右手の手型を180度回転させる。
⑩左手の人差し指は空間に停留させたまま、人差し指を立てた右手で“残像”になった<長方形の面>が数回転している様子を示す。そうして左手の人差し指に/軸/という意味が生成される。
⑪回転してできた回転体は、/回転体の輪郭(側面)/を表す両手の手型に下方移動を伴わせて示す。その際に、“残像”になった軸が/回転体の輪郭(側面)/の中心になるように表現の位置を決めている。

25秒間と短い時間ですが、①~⑪の手順から、複数の数学的事象(辺、軸、面、回転体など)を手話でどのように操作するのか、様々な工夫が正確かつ適切になされていることがわかるかと思います。その後の説明でも数学的事象一つひとつに応じた手話表現がなされています。

また、こうした数学的事象の手話表現に「系統性」を見出すこともできます。つまり、/辺/は、人差し指の指先で空間に描く、あるいは人差し指など指全体で示す、といった表現で決めておくのに対し、/面/は、そのように表すのではなく開いた手全体で表現することに決めておく。/底面/なら、開いた手のひらの側で底面があることを示す。また、空間に残像を残し、残像の特定の対象を指示したり操作することで、/辺/から/軸/へと意味を転移させたり残像が回転する状態を示したりする。このようにろう者教員は今後の数学科授業でも数学的な手話表現を系統的に使えるように吟味して示しているわけです。

そのおかげで、子どもたちは、辺と面などの要素が含まれる新たな数学的事象を操作するために、ろう者教員がこれまでに示してくれた数学的な手話表現を活用して操作し、思考することができます。また、これらを子ども同士で共有することで、数学的な議論をすることも容易になります。実際に授業場面でその様子を確認することができました。

そうして子どもたちは「数学的共同体」になり、子ども一人ひとり数学的事象を探求しながら「数学者」へとなっていくでしょう。

ちなみに、私たちは、子どもたちがそのように教科の世界や文化で「自分探し」ができるように、ろう者教員も、また「自分探し」をしていることに関心を向ける必要があるのかもしれません。なぜなら、ろう教員もまた、自身の手話で教科の特定の言語使用をどのように表現したらよいかを学ぶ場がなく、前例として活用できる資料もない状況で、自分一人で教育実践を重ねながら吟味しているのです。そうせざるをない状況なのです。自分はこれでよいのだろうか?と「自分探し」を続けているわけです。今回の動画を提供してくださったろう者教員もまたそのひとりなのです。ですから、単に手話がうまいね、手話ができるからいいね、というのではなく、その手話が子どもたちにとってその教科の世界・文化で「自分探し」ができるような教材のひとつになれているのだろうか?という視点を持って教員同士で研鑽していけるような環境を今後作っていきたいと思っています。

文献
Lampert, M. (1989)Research into Practice. Arith-metic Teacher, Vol.36, No.7, p.34. 
Schoenfeld, A. H. (1992)Learning to Think Mathe-matically: Problem Solving, Metacognition, and Sense Making in Mathematics. in A. G. Douglas ( ed. ) , Handbook of Research on Mathematics Teaching and Learning, Mac-millan, p.361.