見出し画像

自閉症スペクトラムの男児と先生が紡いだ小さな物語。

「ことばを身につける」とはどういうことだろう。

様々な障害があり、ことばを身につけることが困難とされている子どもたちと細やかで丁寧なコミュニケーションを実践する。
その実践には、私たちにとってもいわゆる言語獲得も含めて「ことばを身につける」ことを考える上で大切なことがたくさん隠されているように思えてならない。

そう考えさせられるエピソードを1つ紹介したい。それは自閉症スペクトラム(ASD)の男児と学校の先生が紡いだ小さな物語である。

ある特別支援学校でASDの小学生(K君)に出会った。K君は、人とどのようにやりとりしたらよいのか見通しが持てず不安を抱えていた。そんなK君とやりとりをしたいけど、思うように進まないと感じている先生。どちらも耳が聞こえる人。先生からK君とやりとりできるように支援してほしいと依頼を受け、K君と先生の係わり合いをサポートすることになった。

K君は、自分から「これやりたい」「やっていいか?」と自ら何かをするときに相手に尋ねることはあまりない人だという。周囲が、K君は何かをやりたいらしいという何気ない仕草に気づき、「これやりたいのね」「やっていいよ」と促す。そうしてK君はようやく初めて動き始めることが多いという。それで先生は、K君が周囲に何かを伝えることで自分のやりたいことを実現できるんだという見通しを持てるようになったら、K君から周囲に伝えようという行動が生まれるのではないかと考えていた。そんなK君は、校庭で先生におんぶしてもらって1周走り回る活動が好きになっており、私が学校を訪問した時もそんな活動をしていた。

先生は、おんぶした後でK君から走り出す合図をしてほしいと思い、まず先生から「ヨーイドン!」という。K君はわかっていて、含み笑いをして待っている。しかし先生は、K君にも「ヨーイドン!」と言ってほしくてしばらく待っている。なかなか出発しないK君は不安になり、先生もどうしてよいかわからずとりあえず先生のペースで「ヨーイドン!」といって走り出すのだった。K君は楽しくて笑っているのだけれど、先生はこのまま自分が主導してよいのか迷っていた。

しかし、そんなふたりの様子を丁寧に見ていると、先生が「ヨーイ…」と言いながらスタートする姿勢に入るたびに、K君は先生の首に回した両手をぎゅっと強く握り直していることに気づいた。先生はそれに気づかず、もう一度やり直そうと立つ。K君は不安な表情を浮かべてあちこちに視線を漂わせる。そして先生が「ヨーイ…」と先生が言ってくると、またぎゅっと強く握り直す。そして、校庭で走り回るのだった。

そこで先生と話し合った。
K君は、先生がいう「ヨーイ…」からああこれから走るんだなと見通しを持っている。それはK君が先生の首に回した両手を強く握り直していることから確認できる。K君のその強く握り直した両手は、先生の「ヨーイ…」という音声やスタートする姿勢から何が起こるのかを見通して受信できており、また「今から走るんだ!」というK君のワクワクドキドキした思いも込められているだろう。それがK君なりのことばなのだと思う。そうしたことばが出てきたときにすぐ走り出すことをしなければ、自分のことばは相手と共有されていないのかなと不安になってしまうだろう、と。

そこで先生は、おんぶしてスタートする姿勢になった時にK君の両手の些細な動きに注意を向けて置き、両手をぎゅっと強く握り直したらすぐ音声で「ドン!」という音声を重ねてスタートすることにした。
それは、先生がK君に「ドン!」という音声を使ってもらうために活動するのではなく、K君の些細な動きを見落とさずすぐ応じて「ドン!」という音声とともに楽しく走り回ることを大切にする、という係わり合いの方針変更だった。

それから2か月して学校を訪問。
K君と先生のやりとりは見違えるように変化していた。 先生におんぶしてもらったK君は歯を出して笑っている。いつの間にかK君が「ヨーイ」と小さな声で言っている。先生はにっこり頷いて「うん、ね、ヨーイ」とすぐ返すと、K君は笑いながら大きな声で「ヨーイヨイ」と言う。そこで先生がK君をおんぶしたままスタート姿勢になると、K君は笑顔で走る方向にしばらく視線を向ける。先生はK君が「ドン」と言ってくるまで笑顔で待っている。それが12 秒間ほど続く。不安と困惑が入り混じった当初とは違い、お互いの信頼とこれからへの期待と希望が感じられる、心地よい「間」だ。

そしてK君が「ドン!」とはっきりと元気よく叫ぶ。勢いよくスタートし、校庭を1周する。そうしてスタート地点に戻って少し休んでると、またK君が笑いながら「ドン!」と言い出す。先生も了解!と言わんばかりにまた走りまわる。こうしたやりとりを何度も楽しく繰り返していた。

先生が報告してくれたが、「ドン!」ということばは、K君とのやりとりを色々な形に展開させるものになったという。
例えば、先生とK君が腰を下ろして休憩していると、K君が笑いながら「ドン!」と言いだしたので、先生が走り出したら、K君も笑って追いかけて走り回る。そしてふたりで走るのをやめると、K君はまた「ドン!」と言って走り回るのだった。ふたりで立って手をつないだままでK君が「ドン!」と言って走り回る活動も生まれた。さらに、K君は、他の先生がしゃがんでいる様子を見ると、嬉しそうに近づいてその先生の首に両手を回しておんぶしてもらおうと先生の背中にくっつくようになったという。「ドン!」ということばを支えに、色々な人とつながってみようと思うようになったようだ。

そして、その年度が終わる3月に、K君の母親から次のような報告があったという。母親が自宅でK君に先生がおんぶして走っている時の写真を渡すと、K君は「ドン!」と言い出して嬉しそうに写真を触って見ていたという。母親は、Y 君がそのような行動を今まで見せたことがなかったので大変驚き、感激して先生に電話で報告してくれた。

耳が聴こえるK君は、確かに周囲の音声を聴くことができていた。しかし自分が何か活動するために音声を意図的に発することはあまりなかった。その背景には、自分がまさに今何かをしたい!と強く望む瞬間瞬間でこう伝えたらそれができるんだ!と納得できることばとつながる経験がなかなかできず滞っていたのかもしれない。

だから先生は、K君がぎゅっと両手を強く握りしめるという繊細な発信に気づき、それが発信された瞬間を逃さずに「ドン!」と重ねることをした。K君にとって「ドン!」は一緒に走り出せることばなのだと納得できるように係わった。そうしてK君と先生は、お互いに確かに通じ合っているという信頼関係の上で「ドン!」という音声を共通のことばとしてわかちあえた。そして母親が写真を見せた時にK君が発した「ドン!」は、「いまここ」を超えて、過去に先生とそうして楽しく活動した出来事が確かにあったことを語っているにちがいない。

このエピソードには、K君だけでなく私たちも「ことばを身につける」ことを考える上で大切なことがたくさん含まれているように思えてならない。
人の尊厳を大切にしあう。瞬時瞬時をどのように生きているのかを確認しあう。人と人との関係を紡ぎあう。人と人とが共通のものを作ってわかちあう。人と人とがともに生きる物語を語りあう。