松尾勉

渋谷ではたらく気分は総理の会社員 | noteでは新しい働き方とベーシックインカム的な…

松尾勉

渋谷ではたらく気分は総理の会社員 | noteでは新しい働き方とベーシックインカム的な何かの掛け算を考えてます | 妻と娘二人の四人家族 | 趣味は趣味は将棋と麻雀と宇宙物理学

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僕らがもっと自由になるためのベーシックインカム宣言

今から3年前(2017年)、「全成人に毎月8万円配布のベーシックインカムを提案する」という投稿を世に問うた。ベーシックインカムがプチブームになっていた時期だったからネット上でも話題になって、財源とかも示したので良くも悪くも賛否を巻き起こしたかなと思う。 あれからずいぶん時間が経った。僕はあの投稿の後、選挙に出て落ちて、しばらくぶーたれて、フリーターもやって、いろいろ世間に揉まれた。今は、政治的なしがらみもない民間人だ。 ベーシックインカムが必要だという思いは変わらない。む

    • 『NO RULES 世界一「自由」な会社、NETFLIX』を読む②~責任をまとった自由を持つ人々が広がっていくためには~

      前回に続き『NO RULES 世界一「自由」な会社、NETFLIX』から得た示唆を書いていく。 責任をまとった自由は組織を強くしうるが、その前提はなんだろうか。一般に、小さな組織や立ち上げ当初のスタートアップの人たちは責任感や当事者意識が高いのに対して、組織が大きくなるほど責任感や当事者意識も細分化される。「大企業病」とも呼ばれるやつだ。 大企業病は僕自身もよく経験してきたし、これを克服するのは至難の業だ。 ネットフリックスではこれらを解決するために責任をまとった自由を

      • 『NO RULES 世界一「自由」な会社、NETFLIX』を読む①~責任をまとった自由の強さ~

        友人に勧められて『NO RULES 世界一「自由」な会社、NETFLIX』を読んだ。多くの示唆を得たので何回かにわたってシリーズで書いていきたい。 初回は、責任をまとった自由の強さについて。 自由にはいつだって責任という問題が付きまとう。両者の関係はとても緊張感があって、一歩間違えると自由=無責任=自己責任という血も涙もない社会が待っていたりする。僕はそんな自由には違和感を抱いていて、かつて「自由は自由でも、愛情や友情や感謝を伴う自由こそが素敵だと気付いた」という投稿でも

        • 変化という時代の新しい学びの保障

          僕はいま渋谷のベンチャーで働いている。役所、政治、ベンチャーと渡り歩いてきたけど、どの世界も新しい発見と学びが満ちている。 役所では法律や予算の作り方といったザ・お役所仕事はもちろんのこと、合意形成の取り方とか、メディアとの接し方、国会議員との関係など人間臭い情緒的な面も存在した。役所は2年ごとに異動するので、その都度勉強しなければいけないことも多かった。良くも悪くも日本を考える上で有意義な経験だった。 政治の世界は、恐ろしく泥臭く野趣あふれる感じだった。この時の様子は「

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        僕らがもっと自由になるためのベーシックインカム宣言

        • 『NO RULES 世界一「自由」な会社、NETFLIX』を読む②~責任をまとった自由を持つ人々が広がっていくためには~

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        • 変化という時代の新しい学びの保障

          マウントおじさんのマウント発言をマウントスタイルで批判するマウントメディア

          森元総理の発言が炎上している。 今回の発言に批判が集まるのは当然だと思うが、一連の騒動を見ていると、少し前に書いたマウントおじさんという病があちこちに噴出していることが気になった。 マウントおじさんは自らを棚に上げて、立場を利用した上から目線の会話をしてくる。厄介なことに、そのような社会ではマウントされる方もそのことに自覚がない場合が多い。 森元総理がJOCというマウント社会の中心にいることは、今回の発言もそうだし同じ会議での別の発言でも表れていた。わざわざ偉い人を目下

          マウントおじさんのマウント発言をマウントスタイルで批判するマウントメディア

          マッチョな昭和とツギハギの平成

          元号は面白いものだ。誰かが「本における章立てみたいなもの」と言っていたけど、本当にそうだなと思う。そこに区切りがあれば僕らは意味を込めたくなる。 僕なりに昭和と平成の意味合いを考えていたら「マッチョな昭和」と「ツギハギの平成」という言葉が思い浮かんだ。会社中心のマッチョな社会で皆が邁進する昭和と、そこへの信頼が崩れて必死にツギハギを施す平成、というイメージだ。前に「ロールモデルなき時代へ」を書いたが、昭和と平成は逆にロールモデルありきの時代だったともいえる。 平成の終わり

          マッチョな昭和とツギハギの平成

          マウントおじさんという病

          僕が公務員の頃の話だ。 役所はマウントおじさんの巣窟で、立場や年次を利用した上から目線の会話や高圧的な指示などにあふれていた。当初は違和感があったけど、少しずつなじんでいき数年後には自らもマウントおじさんの一員となっていた。 役所を辞めた後、自ら事務所を運営する立場になった僕はマウントスタイルを引きずったままだった。そしてそれが見事に通用しないことを知った。人が次々に辞めていったのだ。 当初はなんで辞めていってしまうのかよくわからなかった。それに、なぜ僕の言う通りやって

          マウントおじさんという病

          ロールモデルなき時代へ

          エンパイアステートビルというニューヨークの摩天楼を日本の会社が買収した1990年初頭は、会社中心に社会を組み立てた日本が最後に輝きを放った時期だろう。 その頃までに、会社を中心として学歴社会、新卒一括採用、終身雇用、定年、年金生活などのロールモデルが形作られていた。このロールモデルの中では個々人の自由がいろんな形で制約されたり、会社に長い時間を捧げたりすることが尊しとされたけれど、それでも長期的な安定があまりある報酬として約束されていたように思う。 しかし、今やそんな約束

          ロールモデルなき時代へ

          働き方に貴賎なし

          友人が、ある不動産会社で営業の仕事をしている。中途採用での正社員を希望していた彼は、入社を目指していた会社の人件費抑制の方針からその会社との業務委託契約を結ぶことになったという。今は週5で営業をこなしながら、正社員を目指している。 いま世の中には、この友人のように、正社員を目指していても業務委託での働き方を選択せざるを得ないような人がいる。ウーバーイーツのような手軽な働き方もその流れを後押ししている。 前回の副業とベーシックインカムで触れたように、この国は会社一筋の正社員

          働き方に貴賎なし

          副業とベーシックインカム

          副業が流行っている。いろいろな会社が副業を解禁して政府もその流れを後押ししている。 会社一筋でやっていける時代が終わったということの象徴ともいえる。高度経済成長期には会社都合で副業禁止をうたい政府もそれに乗った。その成功モデルが無理になったら副業を解禁するという、ある意味虫のいい話のようにも感じる。 この副業禁止の慣行もまた、前に投稿した労働意欲が前提の社会と同じく、すごく狭い歴史の一地点の産物だ。右肩上がりの時代の恩恵を社会にいき渡らせるために、国全体が会社におんぶにだ

          副業とベーシックインカム

          アメリカという自由の王者の敗北は、僕たちに自由の礎を築くための残り時間が少ないことを警告している

          アメリカの議会が襲撃された。自由の象徴であり自由の王者だったアメリカで、そのシンボルの一つが自由とは真逆の人々に占拠されたのだ。 ベルリンの壁が壊された日に、世界は自由が席捲したはずだった。しかしたった30年でその世界が再び変わろうとしている。僕らは、大きな転換点の岐路にある。 いまアメリカで起きていること、そして世界で起きていることが元に戻るとは思えないし、不可逆的に変化が起きていく気がしてならない。香港問題、コロナ禍、そしてアメリカの議会占拠と、自由とかけ離れた事象が

          アメリカという自由の王者の敗北は、僕たちに自由の礎を築くための残り時間が少ないことを警告している

          ベーシックインカムが労働意欲を阻害するかという問いに感じるうさん臭さと、新しい時代のベーシックインカムの条件

          ベーシックインカムが労働意欲を阻害するとの声は多い。僕自身、3年前の「全成人に毎月8万円配布のベーシックインカムを提案する」の中では労働意欲の低下に注意する必要があると述べていた。 が、ほんとにそうなのだろうか。この問いについて、僕は当時とはだいぶ異なる感覚をもっている。 そもそも労働意欲という言葉に、うさん臭さを感じてしまうようになった。 少し前の投稿でも触れたが、今の時代はまだまだ前の時代からずっと引きずってきた慣習や考え方や制度が固い岩盤のような形で残り続けている

          ベーシックインカムが労働意欲を阻害するかという問いに感じるうさん臭さと、新しい時代のベーシックインカムの条件

          僕はなぜ政治を3年で離れたのか

          2021年が始まった。僕自身がこれから前に進むためにどうしても触れなければならないことを、この年の初めに書いていきたい。 僕は2014年から約3年間、政治の場に身を置いた。多くの人たちと活動を共にして、楽しいことも辛いこともたくさんあった。「どぶ板」と呼ばれる地道な活動から動画投稿などのインターネットを活用した活動に至るまであの手この手を試して、どうやったら選挙に当選するかの一点を考えて過ごした3年だった。 結果的に、選挙に当選することはなかったが、選挙に至るまでの全ての

          僕はなぜ政治を3年で離れたのか

          自由をもたらすどころか、お互いの足をひっぱらせている日本の制度

          僕らが自由に前に進む先には、山があり谷がある。チャレンジには失敗が付き物だから、それを支える存在がどうしても必要だ。 ベーシックインカムは、誰に対しても等しくチャレンジを支える存在として機能しうる。自由の格差を埋めてチャレンジへと繋げていくのだ。それが、僕がベーシックインカムの必要性を訴える理由の一つだ。 しかし今、日本が用意している制度の数々は、人々に自由をもたらすどころか人々の足をひっぱるようなものが多い。制度の目的を達成するために導入された縛りや条件が、人々の足をひ

          自由をもたらすどころか、お互いの足をひっぱらせている日本の制度

          ベーシックインカムに「自由の礎」(Foundation of Liberty)という新しい定義を与えたい

          ベーシックインカムとは何だろうか。その言葉の響きから僕らがまず感じるものは、いくらかのお金が配られるものというものだろう。 ある人はベーシックインカムを最低限の所得保障と言う。最低限ではなくて、普通の生活を保障するものと言う人もいる。実際、世界中で行われているベーシックインカムの実験は生活をどの程度支えるかが前提になっている。 僕もそう思っていた。だから3年前の投稿「全成人に毎月8万円配布のベーシックインカムを提案する」もその前提に立っている。 ただ今は少し違う。 ベ

          ベーシックインカムに「自由の礎」(Foundation of Liberty)という新しい定義を与えたい

          好きなことで明日をつくろう、ベーシックインカムにはそれを広める役割がある

          僕はいま渋谷で働いている。ベンチャーやスタートアップが次々生まれて、アイディアやサービスがひっきりなしに生まれてくる場所だ。 今までの経験の中では味わったことのない感覚を持ちながらすごしているが、何より違って感じるのは、嫌なことは嫌だと言える空気感、好きなことに熱狂できる空気感だ。 この空気感はたぶん、少数の人間とか一つの企業とかで作っている空気感じゃない。多くの人々、そこに集う企業が「群」となって醸し出しているものなんだろうと思う。ある程度の規模を持つからこそ、他からの

          好きなことで明日をつくろう、ベーシックインカムにはそれを広める役割がある