釣りキチ三郎

釣りキチ三郎

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弥生式竪穴住居の話。

昭和二十年、東京は大空襲を受けたがとくに私の住んでいた港区麻布霞町はこの前まで自衛隊の基地になっていた麻布三連隊に隣接していたこともあり猛烈な空襲を受けた。特に夜間、低空で飛来する米軍機を迎え撃つ速射砲のオレンジ色の光がサーチライトで映し出される敵機の腹をまがまがしい色に染めているのを50年以上経った今でもハッキリと思い出すことができるのだ。 当時小学校三年生だった私は二つ違いの姉とふたりだけで遠い親戚にあたるTさんのところに疎開することになった。疎開先は岩手県の前沢というと

    • ちょっと良い話

      私の年代の男共は池波正太郎の鬼平犯科帳の話が好きな人が多い。鬼平の魅力は何といっても話の中に出てくる人情味あふれる思い遣りや貴賤上下を問わず変わらぬ態度で人に接するその様子だと思う。 人を見抜く力もさることながら決して偉ぶらない態度が読む人の心をつかんで離さないのだ。寒い冬の夜の張り込みをしている密偵たちに暖かい差し入れ持って現れる鬼平は、こんな上司が居たらどんなに幸せだろうと思わせることが屡々あった。 話は変わるがもうずいぶん昔の話である。 私の親友のSの妹が結婚するという

      • 飲み屋

         恐れ入りますがお連れ様以外の方との献酒はご遠慮ください  当店はお一人様につきお酒は三本以内にお願いいたします                       茶色く変色した大きな貼り紙が店の中ほどの壁の高いところに貼ってあって店内を見下ろしているのだが余程気をつけて見なければ誰も気がつかないくらい昔からあってそのことが今でも守られているとは思えない。然しながら、このことは厳然として守られているのだ。ここに来る客は殆どが常連さんなので普段は何事もおこらないが時々一見の客が入って

        • 別荘の夜

           別荘というのは昼間は良いが夜になるとあたりは暗いし人も通らないので怖いところである。  魚政の常連さんで地元の顔役Aさんは魚政の大事なお客さんである。この顔役さんがいつも世話になっているからという口実で実は新築の別荘をどうでも自慢したくて祐さんに是非一度来てくれという話になった。  祐さんは手ぶらで人を訪ねない人だから、当日はトロ箱に特上のお刺身をしこたま詰め込んで夕方東京を出発した。目的地の駅でタクシーを拾う頃には薄暗くなっていて山道を車が走っているうちに鼻をつままれても

        弥生式竪穴住居の話。

          香港の釣り

          一九八〇年、私は香港に赴任したが何しろ暑い所でしかも夜遊びが盛んな土地柄とくるので健康上著しく悪い。 なんとか魚釣りをしたいと思っていたところ、日本人の兄弟で香港に永く設計事務所をやっているОさんと知り合い、特にお兄さんは釣り気違いだったことからよく釣りに連れて行ってもらった。  香港の釣り師達は一人でやる人は少なく団体でやることが多いようであった。特に壮観なのは、釣魚島という島に毎年六月ごろに回遊してくる大スズキ釣りである。何十隻という釣り船が出てこのスズキを釣ろうとするの

          米泥棒

          終戦後はどこも食糧難で大変だったが特に東京の下町では田舎をもっている人はいないからお米を入手するのがとても難しかったころの話である 東京の下町深川のB町の魚政は子沢山で小さな二階家(と言っても二階は屋根裏部屋というものだったが)に子供達が目刺のように寝ている状態だった。 一階は半分がお店で残り半分がお勝手と居間、そこに親父さんとお袋さんに挟まれてアっちゃんは寝ていた。二階のふた間は片方に男共、もう一方に女共が寝ることになっていた。 アっちゃんは八人兄弟姉妹の末っ子で当時小学校

          潮干狩り 

           或る日のこといつもの通り夕方魚政に行くと珍しく祐さんがしょんぼりしている。どうしたのかと聞きたかったが、生憎客が一人入ってきたので本人に尋ねるのははばかられたので黙っていたが清美姉さんが小声で「ねえ、聞いてよ、まったく馬鹿馬鹿しいったらありゃあしないんだから」と説明してくれた。  昨日の日曜日、魚政では久しぶりにみんなで潮干狩りに行ったのだそうだ。潮干狩りといっても女子供がやるのであって男共は行きの船の中から酒盛りでとても潮干狩りなんかやってるような奴はいない。といっても船

          魚屋二代

          東京の下町B町にある魚政の主人佐藤祐二は気ッ風のいい魚屋だが頭も良いし度胸も据わっている。 魚政は親父の政五郎が亡くなった頃から周りのスーパーに客を取られるし木場が移ってしまって昔のように冠婚葬祭を自宅でやる家もめっきり少なくなってきてしまい仕出しもなくなってきてとても魚屋だけではやっていけなくなってきたのを思い切って店先の横を入り口にし奥にカウンターと小さな座敷をしつらえて小料理屋を始めたところこれが大当たり。連日押すな押すなの大入り満員になったにはちゃんと理由がある。 元

          魚屋一代

          佐藤政五郎は魚屋である。                               背は五尺三寸、中背だが胸板は厚くみっしりと身体についた肉は固太りでまことに惚れ惚れするような身体つきである。  顔付きは精悍で目は大きく怒ると鬼のような形相になるが笑うと笑窪が出て優しい顔になるのが可笑しいようである。  なんと言っても壮観なのは身体を彩る入墨である。二の腕には桜、背中には荒れ馬の前に立ちはだかる女が手綱をとって馬を鎮めようとしている近江のお兼という彫り物である。  政五郎は

          偶然の一致

           西伊豆のT温泉のすぐ近くにある漁港に面して何軒かの釣宿兼民宿がある。毎年何回か釣と温泉を楽しみに出掛けたが船頭の都合がつかない時などは堤防釣をすることもある。大物はブダイ、小物はメジナやタカベなどであるが夜になればもっと大物が釣れるに違いないと夜釣の道具をかき集めて持参したことがあった。  電気ウキが必要なので手持ちの電気ウキに新しく買い足してとりあえず人数分の4ヶを揃え、昼は舟釣夜は堤防釣をやろうという欲張った計画であった。  品川発5時25分の沼津行き鈍行は空いていて持

          河豚と鯵の共存

           西伊豆のTという温泉町と言えば昔は金が出たところで花街もあり、殷賑を極めたところだが、今ではただの温泉街になってしまっている。 この町外れに小さな漁港があり民宿が立ち並んでいる一角がある。 ここの民宿はすべて温泉付きだがそのうちのKという民宿は料理も良いし色々と無理も聞いてくれるので、毎年のように通ったものである。  この民宿の親父は漁師でおかみさんが一人で切り盛りしている。働き者のおかみさんは綺麗好きで、トイレや洗面所はピカピカに磨いてあるし、ふとんも天気さえ良ければ毎日

          河豚と鯵の共存

          大森海岸のボラ釣り

           大森海岸がまだ海水浴客で賑わっていた頃の話である。  今では埋立てられてしまったが、昭和三十年ごろは大森海岸にはノリシビが立っていてハゼ、カレイ、ボラ、セイゴ、コノシロなどが幾らでも取れていた。 初冬の日曜日に私はUとSと三人でハゼ釣りに出掛けた。竿は一本竹にガイドをところどころに結び付けた手製の竿、魚籠(ビク)と言えば八百屋から貰ってきたみかん箱をこわして板をのこぎりで引いてそれにコールタールを塗りたくって防水したという代物。これは何ヶ月たっても匂いが抜けないので閉口した

          大森海岸のボラ釣り

          土合の東京館

           売春禁止法が施行される前の年、私は釣友のUと二人で土合にヤマメを釣りにゆくことにした。勿論釣りだけでは勿体ないので空気銃をSから借りて釣竿袋にしまいこんで勇躍出発したのは4月末で俗に雪代ヤマメと言われる未だサビのついた小振りな奴で私達のような素人でも釣れるというのが狙いだった。  土合に汽車が停まると山間の夕方の空から白いものがチラチラと降ってきたので駅員に宿を尋ねると、東京館というのが一軒あるとのことで早速釣道具を担いでダラダラ坂を下っていった。  途中真っ暗になってしま

          土合の東京館

           ハゼの踊り揚げ

           忘れもしない昭和三十六年の正月、私は釣友のUとSそれにSの学友でK大学医学部の学生Kの四人で利根川下流の小見川にハゼ釣りに出掛けた。Kの父親が小見川で医院をやっていたのでかねてから有名な豊里の尺ハゼを釣ろうという計画だった。なにしろ   豊里のハゼは文字通り湧いてくると言われていて川底にハゼがビッシリと二重三重に折り重なっていると言われていた所だ。川に近い家では夕食前に子供がバケツを持って川の中にジャブジャブ入っていって足でドンドンと川底を踏むだけですぐに一家の夕食のおかず

           ハゼの踊り揚げ

          佐渡の釣り

          昭和三十一年の夏、私は釣友のUとSに誘われて佐渡に釣りに出かけた。 その前の年に二人は佐渡の両津からバスで終点まで行き、そこから更に一時間も重い釣り道具を背負って辿り着いた漁村で面白い釣りをしたので、私の大学受験の済んだこの夏にもう一度、三人で行こうということだった。 受験疲れを癒してやろうという二人の友情がありがたかった。  初めて新潟の駅に降り立った三人の前に停まったタクシーがベンツだったのには驚いた。 というのは当時、東京でベンツのタクシーというのは見たことが無く、精々

          木場のボラ釣り

           東京湾では昔は魚が沢山とれたものだが最近はすっかり水が汚れて魚の数も大きさも昔日の面影はないというのが通り相場である。ところが東京湾の奥の方にこんな綺麗な水に大魚がうようよしている所があるかと思うような場所がある。  ある夏の日曜日、私は日頃行きつけの魚政の裕さんとⅠさん、Ⅰさんの彼女の四人で木場からボラ釣りに出掛けた。  昔は木場の掘割にはすぐ出られたものだが、この頃ではすっかり家が建て込んでしまい、護岸堤に行き着くのにマンションの裏口を身体を横にしながらすり抜けて行かね

          木場のボラ釣り