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 ハゼの踊り揚げ

 忘れもしない昭和三十六年の正月、私は釣友のUとSそれにSの学友でK大学医学部の学生Kの四人で利根川下流の小見川にハゼ釣りに出掛けた。Kの父親が小見川で医院をやっていたのでかねてから有名な豊里の尺ハゼを釣ろうという計画だった。なにしろ  
豊里のハゼは文字通り湧いてくると言われていて川底にハゼがビッシリと二重三重に折り重なっていると言われていた所だ。川に近い家では夕食前に子供がバケツを持って川の中にジャブジャブ入っていって足でドンドンと川底を踏むだけですぐに一家の夕食のおかずが捕れたという話が残っているところである。
 前の晩は小見川の宿で一泊した我々は翌朝ボートに釣り道具と天婦羅用具一式を積み込むと朝靄の漂う利根川に漕ぎ出した。
釣れるは釣れるは餌など取り替えなくても入れ食いでアッという間に四人で食べるに十分なハゼがとれた。ここのハゼは東京湾のハゼと違って全部が飴色で透き通ったような色をしていて実に旨そうに見える。残念ながら尺ハゼにはお目にかかれなかったが、早速Uが得意の業物、肥後の守(と言っても若い人にはお分かりにならないだろうが、小学生が良く使っていた鉛筆削り用の小刀である)を取り出すと鱗とワタを手際よくとると用意の小麦粉を溶いたのにつけるや天婦羅鍋にジューッとばかり投げ込む。
 なにしろ獲れたての魚だし豊里のハゼとくるから実に旨い。船上が酒盛りになるのに時間はかからなかった。酒がまわってくるうちにいちいち魚をさばくのが面倒になったUが小麦粉をつけた生きたままのハゼを鍋に投げ込み始めた。生きているハゼは熱がって油から飛び出てくるので二三匹投げ込むとすかさず蓋をしてやらなければならない。踊り揚げという言葉があるかどうか知らないがよく揚げれば鱗もワタも気にならずこれもたちまち四人の胃袋に納まってしまった。
 ハゼ釣りに飽きたSが鰻を捕ろうと言い出したので、ハゼを餌に棒杭の立っている岸近くに船を寄せて色々と試みたがそう簡単に鰻が釣れる筈もなく、風もないよい日和とは言え正月の利根の川風が冷たくなってきたので宿に帰ることにした。
 翌日、小見川を出発した我々の車が藤代に差し掛かったとき、東京方面から来たダンプカーが何を思ったかカーブを切りそこなって我々のほうに直進してきた。アッと思う間もなく我が愛車のダットサン一000の右側の二枚のドアが衝撃で吹き飛ばされてしまいフロントガラスは粉々になってしまった。運転席(私)の後ろに座っていたKは右足首を複雑骨折、同じく隣に居たSは顔面にガラスが突き立って血だらけ。私といえば後年悩まされつづけているムチ打ち症と散々な目にあってしまった。中で一人無傷なのがUだった。
 そう言えばハゼの踊り揚げをするたびにUだけが南無阿弥陀仏とブツブツつぶやいていたのが妙に印象に残っている。
 SとKは通りかかった自衛隊の車で病院に担ぎ込まれ、Uと私は警察の事情聴取やらなにやらで遅くなってしまったが車のエンジンやタイヤは大丈夫そうなのでコノ車で東京に帰ることにした。
 真冬の夜道をフロントガラスも無く車の右側は何も無いという状態で走るのだがなにしろ寒くてたまらない。二人は持っているものをすべて身にまきつけて顔はマフラーでぐるぐる巻きにして目だけ出した格好で水戸街道を突っ走り、上野の駅を通り過ぎ、神田、青山通りを一目散で家に帰ったのだった。途中で交番の前も何箇所か通ったのだが不思議なことに一回も検問を受けなかったのは警察官もあまりに無残な格好に呆気に取られたに違いない。

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