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土合の東京館

 売春禁止法が施行される前の年、私は釣友のUと二人で土合にヤマメを釣りにゆくことにした。勿論釣りだけでは勿体ないので空気銃をSから借りて釣竿袋にしまいこんで勇躍出発したのは4月末で俗に雪代ヤマメと言われる未だサビのついた小振りな奴で私達のような素人でも釣れるというのが狙いだった。
 土合に汽車が停まると山間の夕方の空から白いものがチラチラと降ってきたので駅員に宿を尋ねると、東京館というのが一軒あるとのことで早速釣道具を担いでダラダラ坂を下っていった。
 途中真っ暗になってしまい酒屋も閉まっていて酒も買えずにやっと東京館にたどりついたのは夜の7時過ぎだった。
 東京館とはよくぞつけたりという名前で、玄関を入るとすぐ右手に主人の部屋があり囲炉裏が切ってあって、顔中垢と汚れでヒビ割れした爺さんがモグモグと言ったが何を言っているのかさっぱりわからず、とりあえず二階の部屋に通された。
 二階に上がると真っ暗で他に泊り客の居る気配も無く、案内について来た宿の小娘が申し訳なさそうに食事の前にお風呂でもどうかと言って階段を下りていってしまうと雪の夜の山の中のような感じでシンとして何やらもの凄い。
 寒いし暗いしで風呂にでも入って一杯やろうという気持ちに駆られるように下に降りてゆくと、さっきの小娘が手燭を持ってこちらへどうぞと言うように廊下を歩き出した。
 廊下は長く時々四五段づつ下へ曲がりながら降りて行くのだが、なにしろ真っ暗な廊下で前を行く娘のロウソクが唯一の頼り、不安のうちにやがて風呂場らしいところに着いた。
 娘が風呂場の電気を点けると普段なら薄暗く感じる豆電球が魔法のように明るく感じられホッとしていると、娘はそれではどうぞと言うと持ってきたロウソクを横に立てると真っ暗な廊下に消えていってしまった。
 この風呂が東海道中膝栗毛に出てくる音に聞こえた五右衛門風呂である。
 まず脱衣所から一段下がった三和土に下駄が揃えてある。知らない人(我々もそうだったが)は、五右衛門風呂の底は熱していて火傷するという位の知識しかないからそこにこだわわった揚句下駄を履いて湯に浸かろうとするのが普通だと思うが
実はこの下駄はトイレに履いてゆく下駄なのである。第一下駄を履いて簾の子の上に乗っかって簾の子を沈めて行くのは至難の業であることにすぐ気がつかなければならないのである。
 かくして悪戦苦闘の末やっと一っ風呂浴びて部屋に戻りついた。
 食事につけてくれるよう頼んでおいた燗酒は何やら狸の置物を思わせる形態で親爺の顔の皮膚のような色をした徳利に入っていて中身はとても清酒とは言い難い濃い色の酒で徳利の色が滲み出てきたような色をしていた。
 食事が終わると娘が布団は押入れに入っていますからと言って、食器をさげると下に降りていってしまったので、二人で押入れから布団を引っ張り出そうと襖を開けると湿った重たい布団が押入れにぎっしりと入っていて、この布団に潜り込むには相当勇気が必要だった。
 雪は相変わらず降っているようだし、静かなことは天下一品、布団の臭いもやがて気にならなくなる頃二人は寝入ったのだった。
 翌朝裏の窓を開けると一面銀世界で、雪は少し小降りになってはいたがとても釣りに出られる状態ではない。何もすることがないので布団に潜り込んで二人で無駄口を叩いているうちに何となく落ち着かない雰囲気が部屋にあるような感じを持つようになった。
 昨夜は暗くて分からなかったのだが、明るい昼の光の中で部屋を見渡すと部屋がかしいでいるのである。押入れの襖の下が窓側と部屋の真ん中とでは明らかに高さが違うのだ。仰向けに天井を見ると気の所為ではなく身体の左側に体重が片寄っているのが感じられる。
 寝床から這い出して調べてみると、建物(二階部分)が道路側に傾いでいて道路側の窓は開かずの窓になっているのである。
 夕べ宿の女将がここは昔中仙道だったので参勤交代で通る大名行列を二階から見下ろすことの無いよう窓は開けないのですと言っていたのは真っ赤な嘘で、家がかしいで戸があけたてできなくなってしまっているのであった。
 十時ごろ、雪も小止みになったので空気銃で鳥でも兎でも撃とうということにし、女将におにぎりを作ってもらって雪のやんだ雑木林目がけて出発した。
 ところが畦道の途中に小川があって折からの雪解け水でかなりの流れになっているところに出くわした。あたりを見回したが橋の架かっている場所も無く、ええままよと其の侭長靴で渡り始めたが流れが強いため冷たい雪解け水がゴム長の上を越えてドンドン靴の中に入ってくる。これは大変と大急ぎでジャブジャブ駆け出したものだから余計水が入ってきてその冷たいことと言ったら話にもなにもならない。
 寒いと思って厚手の靴下を履いてきたところに水が浸み込んだものだから、ゴム長の中で膨張してピッタリとくっついてしまい、向こう岸に着いてゴム長を脱ごうとしてもとてもとれない。尻をついて両足をバタバタしたものだから今度は冷たい水が足首から膝へ、膝から大事な所へと流れ込んでしまい二人は七転八倒して冷てえ冷てえと大騒ぎ。
 やっと二人で向かい合いに座ってゴム長を脱がしあったころには精も魂も尽き果て
て釣りや猟どころの騒ぎではない。ひとしきり大笑いしたことだった。それでも靴下をぬいでしまったのでゴム長を素足で履き半分ヤケクソで次々と川を渡り、猫でも犬でも鳥でも何でも撃って憂さを晴らそうと思ったが、天に翔けたか地に潜ったか生き物らしいものが見当たらないのである。
 釣りもしない、空気銃も撃たないでは何をしに土合くんだりまで来たのか分からないという口惜しさの一方、こんなところはさっさとおさらばして東京で美味いものでも食おうという気が段々強くなってきた二人は、雪が降っているようでは未だ雪代ヤマメは早いという結論に辿り着くに時間はかからず、土合から一刻も早く離れたい気持ちになっていた。

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