魚屋二代
東京の下町B町にある魚政の主人佐藤祐二は気ッ風のいい魚屋だが頭も良いし度胸も据わっている。
魚政は親父の政五郎が亡くなった頃から周りのスーパーに客を取られるし木場が移ってしまって昔のように冠婚葬祭を自宅でやる家もめっきり少なくなってきてしまい仕出しもなくなってきてとても魚屋だけではやっていけなくなってきたのを思い切って店先の横を入り口にし奥にカウンターと小さな座敷をしつらえて小料理屋を始めたところこれが大当たり。連日押すな押すなの大入り満員になったにはちゃんと理由がある。
元来裕さんは付き合いの広い人でそれこそ宵越しの銭はもたないほうだからいろんな所で顔が利く。みんな一度や二度は裕さんの世話になっているから裕さんが小料理屋を始めたと聞けば遠くからでも駆けつけてくるのは当たり前ということなのだ。しかもそれからが違う。一度来た客を逃がさないのである。魚は子供の頃からうるさい親父に仕込まれているからそこらの小料理屋で出すものとは比較にならない味である。其の上すぐ上の姉さんのヨッチャンの作る煮物ときたら天下一品。そういうわけだから一度来た客は必ず二度三度と顔を出す。満員で入れないとますます来たくなるのが人情だ。
料理が美味しいだけなら他にもあろうが裕さんの客あしらいの上手さは並ではない。通ぶった客が来た時のあしらい方などは横で見ていて痛快そのものなのだ。そんな客が帰ったあとの一言がまた面白い。しかも客は随分と馬鹿にされているのも気づかずにご機嫌で帰ってゆくあたりの呼吸は鮮やかなものでいつも感心してしまう。
たとえばこんな具合。
客「おい、今日はなにか美味しいもんあるかい」
裕(べらぼうめ、美味いか美味くねえか喰ってからにしろってんだ、家には不味いもんなんかありゃあしねえよ)
「そうですねえ。今日は青鯛、ひらめ、鰹、鯵、赤貝・・・・ まあそんなとこですかね」
と言って店内のボードに記入されている魚を全部並べあげるのだが、それがぶっきらボーでもなくボー読みにするでもなくごく自然にすらすら出てくるので聞いている客はなんとなくそんなものかという気がしてきてしまうのだ。
何回か客が通ってくるうちにその客の好みが分かってくると刺身を切る合間を縫って一寸したおつまみを作ってくれるのだがこれが美味い。裕さんに言わせると子供のころから魚をいじっているからどの時期にどんな魚のどこの部分をつかってどういうものを作れば美味いか身体が覚えているという訳なのだ。 だから単品を頼んでもなじみの客には其の客の好きそうなものをちょっと皿の端に乗っけて置いてくれる。それは丁度その客が何か刺激のあるものが欲しいなという顔をするのが分かるかのように、辛味噌を合えた貝の粒だったり、唐辛子の利いた小鰺の南蛮漬けだったりするからこたえられない。私はよくこういう突き出しというか箸休めというかわからないが、美味しい食い物を看板に出したらどうかと何回も祐さんに勧めたのだが、「金を取ってだすようなものじゃあねえよ」と言ってとりあわない。たとえば、魚政のヨッちゃんの作る深川鍋の美味いことといったら天下一品なのだが、これも金を取って食べさせるものではないの一言で看板には載せないのである。ところが、金をとらない訳ではない。この辺の呼吸が難しいところなのである。
つまり、祐さんとしては客にまた来て欲しいし、客のほめ言葉も欲しいという気持ちからやっているからこれはいくらですという気が全く無いわけではないが、建前上は自分の気持ちとして客に気を遣って出しているということなのである。ところが、お帳場を預かっているトシちゃんにしてみれば、客に美味しい美味しいと口先だけ言ってもらったって、こっちの懐は暖ったまらないから、祐さんが客に出す小鉢を目ざとく見つけて勘定書きに乗せておく。
祐さんからみるとこれが面白くない。面白くないけれどトシちゃんに「そんなこと言ったって、今時のお客はチップを弾むって言うことができないんだからちゃんと請求して構わないのさ」と言われると返す言葉がないのである。
店の好意に客がチップという形で応えるというのが客と店との本来あるべき関係である筈がどこで狂っちまったのか何でも金に換算するという風潮が面白くないのである。また、チップを乗せて支払う客にとってはもっと面白くないからそういう客には心の中で手を合わせいるという仕掛けになっている。
勿論、客の懐具合なんぞすぐに見て取ってしまうから客に分不相応なものは勧めない。
客にお世辞一つ言うわけでもないのだが、なんとなく客は裕さんに声をもらうのが嬉しいのだから人徳があるとしか言いようが無い。
裕「どうですその青鯛。美味しいでしょう」
(馬鹿野郎、てめえ青鯛なんぞ喰ったことねえだろう)
客「うむ 初めて喰ったけどアッサリしてなかなか美味しいねえ」
裕「今が丁度旬です」 (ざまあ見ろってんだ)
裕さんのほかには手伝いのマーちゃん(裕さんの中学の後輩)それ以外は女ばかり四人それが全員裕さんの姉さんなのである。忙しい時には妹のアッちゃんも手伝いに来る。なにしろ魚の店売りもやっているし近所の屋形船の仕出しも受けているから週末には目が回るような忙しさである。
カウンターには近所の常連さんがずらりと並んで勝手なことを言っている。奥には宴会の客が入っていて酒だビールだと叫んでいる。店先には夕方のおかずを買いに来たおかみさん達が待っている。屋形は時間が決まっているから配達を遅らせる訳にはいかない。というような具合なのだ。
夜の八時すぎに一段落すると、裕さんに言わせれば「馬鹿馬鹿しくてやっていられねえ」ということになる。酔っ払いを相手に立ち詰めで働いて好きな酒もろくに口にできないというのは商売とはいえ馬鹿らしいに違いない。
そこで裕さんは気晴らしに常連さんを誘って近くのカラオケバーに繰り出すことになる。勿論勘定は裕さん持ちであるとは姉さん達は知っているから面白くない。裕さんにしてみれば俺が稼いだ金を俺がどう遣おうとどこが悪いということになる。
裕さんは何所へ行くにも魚屋の長靴姿である。或る時、銀座のバーに長靴で入っていって嫌な顔をされたがなにしろ金遣いが綺麗だし話は面白いしで大もてだったそうだ。
カラオケでは裕次郎しか歌わない。好きこそ物の上手なれで裕次郎の歌は聞かせる。ただし、長靴に鉢巻スタイルなんだが。カラオケで他の客が出てゆくとすぐに借り切りにしてしまい心ゆくまで裕次郎を歌いまくるのである。店のものにも十分飲ませた上勘定は余分にはらうのだから大事にされないわけが無いし、なんでも無理は聞いてくれることになる。
ところで一見の客が魚政にきて帰るときの裕さんの台詞は決まっている。
「どうも有り難うございました。すいませんねむさくるしいとこで。こんな店でよかったら又来てやって下さい。」と頭を下げるのだ。相手の顔を真正面に見て頭を下げるから客の方は悪い気はしない。その辺の飲み屋の下を向いたまま「どうも有難うございました。又お越しください」の台詞と比べて見て欲しい。
裕さんが身体をこわす前には何回かゴルフを一緒にしたが、なにしろ朝早く車で迎えに行くとカウンターに座って焼酎を飲んで待っている。「まあ掛けて」と言いながらすぐにビールを抜いて注いでくれる。こっちも嫌いではないから朝の六時前からすきっ腹にキュッと入れるのはまことに心地いい。裕さんは独身なので女房代わりをやっているヨッチャンが「ハイお弁当」と言って立派な折り詰めを持たせてくれる。行く先は裕さんがメンバーのSゴルフ倶楽部である。天気の良い日には途中の畑の真ん中に車を止めて朝日をあびながらみんなで車座に座って美味しい美味しいお弁当をパクつきながらビールでも焼酎でも呑み放題である。ヨッチャンの作る弁当の美味しいことと言ったら。
流石にゴルフ場には長靴では行かないが、店の近くの練習場にはいつも長靴で行く。或る時、裕さんが練習場でボールを打っていると前の打席にある有名なお年寄りのプロが客に教えていてこう言った。、
「見ねえ、この人みたいにゴム長でボールを打つのが一番練習になるのョ」
確かにゴム長を履いてボールを打つには足指でしっかり地面を掴まないと打てないのだ。
裕さんはゴルフを始めた頃は悪い友達に散々カモにされて口惜しい思いをしてきたから実に上手なもので、どちらかと言えば小柄で細身だが天性のものがあってボールを真っ直ぐ遠くに飛ばす。三番アイアンで打つ打球は惚れ惚れするような弾道を描いて飛ぶのだった。
コースに出るとスタート小屋で他の人達はコーヒーを飲みながらスタートを待っているのだが裕さんは直ぐにビールを取り寄せて飲み始める。誰も食べないのにサンドイッチも注文するのだった。やがてキャデーがカートを押してやって来る。一番ホールのテイ―インググラウンドに向かって歩いてゆく年寄りのキャデーを見て裕さん曰く
「見ろ、あのキャデー、カートに寄っかかって歩いていやがらあ カートおっぱずしたら突っかかって倒れるんじゃねえのか。本当にここのキャデーときたら婆ァばっかりで養老院から出てきたところみてーだ。」
昼飯時がまた大変である。酎ハイを何杯でも飲んだ上に漬物持って来い、ラッキョウが欲しい、とせっかくとったライスカレーには手もつけない。食堂の女の子たちも慣れたもので嫌な顔一つしないで裕さんの注文を聞いてくれるのだ。
コースの中にある茶店に来ると必ず一杯ということになる。この茶店というのが江戸時代か明治に出来たといったような小屋ですべてが煤けたような色をしている。中にいる婆さんが昔キャデーをしていたとかで茨城弁でなかなか口が達者とくるから祐さんのいい相手である。婆さんは常連さんがくるとアルミの弁当箱に持ってきた自家製の沢庵を薦めてくれる。この歯ごたえがあって美味い沢庵を齧りながら、寒い日に熱燗のコップ酒をチビチビやっているとなにかタイムスリップしたような気がしたものだ。でも残念ながらこの茶店はその後取り壊されてしまいいまではその跡に自動販売機がおいてある。
さて私が祐さんの店に始めて行ったのは昭和六十年頃で未だ開店して一年もしない頃のことだが、何回か通っているうちに祐さんの大好きだった母親が亡くなってしまった。
珍しくほかの客が居ないとき、祐さんは写真を出してきて「いいお袋だったなア」と言ってお袋自慢を始めた。ほかでも書いたが小柄で品のいいお婆さんで若い頃はさぞかし美人だっただろうと思わせる容姿である。「あんなくそ親父に騙されて魚屋へ嫁に来て苦労したんだ。関東大震災なんかなけりゃ親父に見初められることもなかったのに」と言って、親父さんが震災のあとに上野のお山に避難していたお袋さんを無理やり口説き落とした経緯(イキサツ)を聞かせてくれた。その揚句祐さんはこう言った。
「こんなに沢山子供を作りやがって親父も仕様がねえ親父だが、お袋も結構嫌いなほうじゃあなかったてえことかな」
魚政が小料理屋を始めた頃はB町は昔の面影もないほど人通りも疎らな通りだったが、ウオーターフロントとか言って大きな会社がB町の奥のF町のほうにビルを建てて移ってきたこともあり随分と客種が変わってきた。はじめて魚政に行った頃は背広にネクタイというのは私ぐらいなもので他はすべてジャンパーかセーター姿だったのがいつの間にか背広にネクタイの客が圧倒的になってしまい、昔からの常連さん達は遠慮して背広族の帰ったころを見計らって来るようになってしまった。客種は主人によって決まるというが魚政の客種はたしかに良い。祐さんの人柄で背広族もすっかり贔屓になってきたということである。
平成五年頃から祐さんの具合が悪くなってきた。聞くと肝硬変で糖尿も出ているという。ゴルフ場で足が攣ってしまい救急車で病院に担ぎ込まれたこともあるとかで、家のものも心配しているのだが何しろ医者嫌いだからいくら言っても病院には行かない。
そのうちにとうとう家で倒れて飯田橋の済生会病院に入院することになった。見舞いに行くとすっかり痩せて顔色も悪くもう駄目かと思っていると何時の間にか店で立ち働いているのだ。好きな酒は止められないから酎ハイをチビチビ舐めながら「もう俺は駄目だ、どうせ子供もいねえし、やりたいことはやってきたし、いつ死んでもいいや」が口癖で、ズボンの裾をまくり上げて「こんなに細くなっちまってよ、ゴルフやってもちっとも飛ばねえョ」と嘆くことが何回かあった。
然し、不死身という言葉通りどんなに無茶苦茶をやっても根が丈夫だと見えて一向に死なない。死にそうにはなるのだがその都度生還してくる。済生会の先生ともすっかり仲良しになり、先生が若いインターンを連れて何回か魚政にも見えていた。、この先生自身も癌で体中傷だらけなのだそうだ。祐さんと先生が二人でお腹を見せ合って何回切ったかを自慢し合っていたが、そのうちにとうとう先生は車椅子で患者を診察するようになったとかで店にはこなくなってしまった。
「先生、どっちが先に死ぬか賭けしねえか」とは祐さんが先生に言った言葉である。
平成九年八月には入院したきりになってしまった祐さんはそれでも調子の良いときには病院から抜け出すと店に来て刺身を切ったり客の相手をしたりして相変わらず酎ハイをチビチビやっていたが直ぐに疲れると見えてほんの僅かしか立っていられなくなっていた。
亡くなる一週間ほど前、祐さんは近所の馴染みの店を一軒一軒訪ねて今まで世話になったお礼だと言ってお金を包んでみんなに別れを告げたそうだ。
お葬式はB町では後にも先にもない大変な数の弔問客で、その真ん中を木場の人達が勢揃いで木遣りを唄いながら通って行ったことを思いだす。荘重で物悲しい節回しだが粋なもんだったなあ。
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