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佐渡の釣り

昭和三十一年の夏、私は釣友のUとSに誘われて佐渡に釣りに出かけた。
その前の年に二人は佐渡の両津からバスで終点まで行き、そこから更に一時間も重い釣り道具を背負って辿り着いた漁村で面白い釣りをしたので、私の大学受験の済んだこの夏にもう一度、三人で行こうということだった。 受験疲れを癒してやろうという二人の友情がありがたかった。
 初めて新潟の駅に降り立った三人の前に停まったタクシーがベンツだったのには驚いた。 というのは当時、東京でベンツのタクシーというのは見たことが無く、精々ルノーの小型な車か英国製のオースチン位だったので、産まれて初めてベンツに乗ることになり、嬉しいやら勿体ないやらなんで新潟でという変てこな気がしたことを覚えている。
 船が新潟港を出ると海の色は白っぽく汚れているように見えたが、やがて深い濃い紺色になり、東京湾か相模湾、精々銚子港しか見たことが無かった私には何かとても神秘的であり、惹きこまれてゆくような、怖いような気持ちにさせられるのだった。
 両津からバスに乗ると、海岸沿いに走って行くのだが、なにしろ狭い道で、特に部落の中を通り抜けてゆくときは、乾してある赤ん坊のおしめがバスの窓にパタパタあたる有様。 他人の家の庭先を走ってゆくので道を間違えているのではと運転手の顔を窺うのだが、一向に素知らぬ風で運転してゆくのであった。
 幸いなことにこの年からバスが私たちの目的の漁村まで走ることになったお陰で、重い荷物を背負って田舎道を歩かなくて済むので助かった。
 私たちの着いた旅館は、東京館という割合大きな旅館だったが一階の奥は家族が住んでいて、私たちは二階の表通りに面した大きな部屋に通された。勿論、客は我々三人だけ。
 バスがこの漁村に入ってから感じていたのだが、その臭い匂いには参った。旅館の中に入ってもその臭い匂いは変わらず、そこらじゅうに魚の腐ったような匂いが充満しているのだ。
 旅館の小母さん東京から来た三人に、何もない所だが、と言いながら食事を作ってくれた。ジャガイモと烏賊の煮付けがおかずであとは沢庵のきれっぱし。
 私たちは早速釣り道具を点検すると釣りに出かけることにした。強烈な夏の日差しの中を磯に着くと匂いの疑問が氷解した。浜の隅から隅まで烏賊の臓物が放り出されていており、これが夏の日差しで腐敗し猛烈な悪臭を撒き散らしているのだ。そこら中に烏賊が旗のようにぶら下がっていて、この村が烏賊で生計を立てていることが目と鼻から否応なく理解させられるのだった。
 海の水は塩分が強く、カナヅチの私でも向かいにある岩場まで泳ぎ着けるほどであったが、なにしろ暑いので釣りはそこそこにして夜釣りにくることにして、辺りの様子を見ることにした。
 水は浜辺の汚れ具合からは想像も出来ないほど美しく、船上から見た群青色で身体が染まってしまうのではないかと思うほど深い色をしていた。
 旅館まで歩いて帰るうちに身体はすっかり乾いてしまい、宿に着いて頭を振ると塩がサラサラと畳の上に落ちてきたのにはビックリした。
 小母さんからイカを別けてもらって餌にし、ハエ縄を作って夜の準備をする。
夏の夜の磯は蚊さえいなければこんなに気持ちのよい所はない。夜風がそよそよ吹いて肌に爽やか、遠くにイカ舟の漁り火が点々と見えて磯に打ち寄せる波の音も冬の波とは違ってやさしく、耳に心地いい。
 縄を張って二・三時間してから引き揚げると大きなブ鯛が一匹かかっていた。ブ鯛は色がどぎつくて冬は美味だが夏は臭くて不味いときいているので海に戻ってもらった。他の餌も食いちぎられた痕があり魚影の濃いところだというのが第一印象だった。
 宿に帰ると夕食が膳にならべてある。ジャガイモと烏賊の煮付けに沢庵。我々はまだ若かったし夜風にあたってきて腹が減っていたのであまり気にもせず食事が終わるとすぐ寝てしまった。
 翌朝は快晴。少し寝過ごしてしまったので、食事をしてから朝の海に行くことにする。朝食はジャガイモとワカメの味噌汁にジャガイモと烏賊の煮付けだったので、小母さんに何か他にオカズはないのかと聞くと、ないとの一言で取り付く島もない。これだけ烏賊がとれているのだからイカ刺ぐらい出してよと言うと、この村には冷蔵庫がないので、烏賊は乾すか煮てしまわないと痛んでしまうとの話だった。本当にこの宿に着いた時に小母さんが言った言葉は間違いないことだったのだ。
 兎に角、朝昼晩イカとジャガイモの煮付けが出てくるので何が何でも魚を釣って食わねばと気合がはいる。その晩はハエ縄の鈎を増やして約三百本の仕掛けを流し、引き揚げるのも早めにしたところ、嬉しいことに四十二・三センチの黒鯛がとれたので一目散に宿に戻り刺身にしてほしいと頼んだが出来ないとニベもない返事。
仕方がないので焼き魚にしてもらう。それでもやっと人並みの食事にありつけ感激。
 なにしろ、昼間村を歩いてみたのだが、ラーメン屋が一軒(休業中)あるだけで、食い物屋というものがない。男の姿が見えず女と子供だけが歩いているのだ。子供が裸足でパンツ一つなのは分かるが、女という女が全員モンペをはいて頭に手拭をかぶって暑さよけにしている。年寄りなのか若い女なのかの区別もつかない。戦後十年も経っているとは思えない様子である。
 太陽だけが情け容赦なく真上から照りつけ、家も道も白っぽく、空気はイカの臓物の腐った匂いで充満している。浜辺はイカに占領されまともな人間では三日と居られない。
 遂に翌日退散することににした。帰途両津ですこし見物したが大して見るところもなく夕方新潟港に到着。
 新潟の街中で見掛けたスカート姿の女性の綺麗なことと、夕食に食べた牛丼の美味しかったこと、四十年経った今でも忘れられない。
 一体全体、UとSは何故あんな辺鄙な場所を見つけたのか、何故前年はそんなにひどい場所ではなかったのか、未だに疑問なのだが彼らに今頃聞いてもそんな事を覚えていないと言うだろう

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