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飲み屋

 恐れ入りますがお連れ様以外の方との献酒はご遠慮ください
 当店はお一人様につきお酒は三本以内にお願いいたします                      
茶色く変色した大きな貼り紙が店の中ほどの壁の高いところに貼ってあって店内を見下ろしているのだが余程気をつけて見なければ誰も気がつかないくらい昔からあってそのことが今でも守られているとは思えない。然しながら、このことは厳然として守られているのだ。ここに来る客は殆どが常連さんなので普段は何事もおこらないが時々一見の客が入ってきた場合に一寸した揉め事が見られる。客の中には4本目を注文するものもいるが、そういう場合にはここの店員はきっぱりとお断りするのだ。その毅然とした態度にビックリして大抵の客はブツブツ言いながら諦めるが中にはしつこい飲兵衛がいて店員にからむのもいるが決して客に媚を売るような態度はとらずに客の要求を退けてしまうその呼吸は横で見ていても痛快なほどである。私もある時この店で知り合いに偶然会ったので一緒に酒を飲み始めたのだがついその友達に酒を注ごうとしたらその友達は「ここでは献酒はご法度だから」と言って注がせなかった位ここの客は教育されているのだ。
 そんな位だから酔っ払いには非常に厳しい。この辺りはお寺さんも多いのでよく法事帰りの客がほろ酔い気分で入ってくることがあるが、入り口の引き戸を開けて一歩はいった途端に店員が飛んできて断ってしまう。どうも見た瞬間に酒が入っているかどうかがわかるようで、客を選ぶ眼力はたいしたものだといつも感心してしまう。
 酒は各地の銘酒を揃えていて美味い。肴は多くは無い。なんと言っても付きだしが印象的である。はじめてこれが出てきたときは思わず笑ってしまった。必ず二つでてくるのだがおままごとに使うような小さい皿に佃煮がほんのポッチリ入っている。楊枝の半分位の魚が5-6匹乗っているだけなのだ。もう一つの小皿には昆布の煮物がほんとに申し訳程度載せてある。なんと言ってもここは酒を飲む店なのだということを
この一事からも客に明確に伝えている店の方針が嬉しいではないか。
 したがってここの肴は種類もあまり無く量もすくないのである。二本目を頼むとこれもちいさな容れ物に小さな湯豆腐がでてくる。これが食べたいばっかりに二本目を頼む客がいるくらい美味しい。すこし通うと客の好みの酒をちゃんと覚えていてくれていて黙って座ればたとえば私の場合だったら真澄の熱燗がでてくるというので客は嬉しくなってしまうのだ。会員になると会員席というのが店の奥のほうに在って、一般席は満員でもそちらに通される仕掛けも客の気持ちをくすぐる術を心得ていて憎らしいほどである。兎に角これだけ客を教育している店は他には知らない。酔っ払いにからまれることもないし、声高で喋るような客もすぐに注意されるからいなくなってしまうので、実に楽しくお酒をたのしむことができるので私は浅草に出かけるときは必ずこの店に顔をだすことにしている。
 しかも嬉しいことに会員は午後4時から入れてくれるのだ。一見の客は5時からで玄関払いされている横をすっと入って行く気持ちはなんとなく良い気分なものなのだ。
 勿論酒は正一合で品の無い二合徳利なぞはおいていない。これを書いているうちに行きたくなってきた。 どれ、出かけるとしようか。
 


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