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偶然の一致

 西伊豆のT温泉のすぐ近くにある漁港に面して何軒かの釣宿兼民宿がある。毎年何回か釣と温泉を楽しみに出掛けたが船頭の都合がつかない時などは堤防釣をすることもある。大物はブダイ、小物はメジナやタカベなどであるが夜になればもっと大物が釣れるに違いないと夜釣の道具をかき集めて持参したことがあった。
 電気ウキが必要なので手持ちの電気ウキに新しく買い足してとりあえず人数分の4ヶを揃え、昼は舟釣夜は堤防釣をやろうという欲張った計画であった。
 品川発5時25分の沼津行き鈍行は空いていて持参の弁当を広げ、朝からビールだ焼酎だと宴会気分である。大船あたりになるとすれ違う上りの電車は通勤客で満員で我々のほうを羨ましそうに見ている。他人が働いている時に遊びに行くのはなんともいえず気分の良いものである。
 昼前に沼津に着くとバスに乗り換えて沼津港に行く。定期船の発着所には小魚を炭火で焼いて売っているおばさんがいて香ばしい匂いをあたりに撒き散らしている。早速こいつを肴にビールをまた飲むことになる。定期船は快速で、車だと2時間くらいかかるところを50分程でついてしまう。イルカが伴走することもあるし飛魚が滑空するのを見ることもある。そんなこんなで船宿には昼前に着いたのだがすっかりできあがっている4人は心地よい風のふきわたる2階の部屋で昼寝をした。2時間ほど休んでから夜釣りの準備をはじめた。
 といっても大したことではない。長めの渓流竿か柔らかいリール竿に電気ウキをつけて餌は夕食に出る刺身を小さく切ってつけるだけ。ところが電気ウキの中に私が10年以上前に買って一度もつかっていないものがあった。電池は勿論新しくして明るい光を放つのだが、なにしろ重くてすぐに水中に沈んでいってしまうのだ。初めは錘がおもすぎると思いこみ錘をナイフで削ってみたりした挙句しまいには錘を外してやってみたがそれでも沈んでしまうのだ。
 なにか付属品がついていたに違いないと連れの3人は口々に言うのだが、そんなものがついていた覚えはない。上部に風船のようなものがついていたに違いないと言われても、もともとこの3人は私の釣の生徒であり、先生としては質問されて教壇で立ち往生している最中に他の生徒が色々といい加減な答えを言って騒ぐのと同じで困惑しながらも不愉快であり、結局おし黙っているほかなかった。
 翌朝、船頭が早く起こしに来てすぐ出掛けると言う。とにかくこの船頭は釣り場に着くまで何を釣るかを言わないので当惑してしまうのだが、この日も釣り場につくといきなりまずイカをやってみようと言って4人分の仕掛けを胴の間にドサッと投げ出した。
 それまで十数回はここで釣をやってきたがイカ釣りは初めてである。珍しいこともあるものだとヒョイと仕掛けを見るとなんと夕べ大騒ぎしたウキが四ッごろんと転がっているではないか。なんのことはないイカを寄せるための水中ウキだったのだ。
 三人は顔を見合わせると大笑い、私のバツの悪さと言ったらない。そこで遅ればせながら思い出したのは昔イカ釣りに行っていた頃に人に教えてもらって水中ウキを買ったきりイカ釣りに行かなくなり水中ウキを結局使わなかったことだった。
 水中ウキだから沈まなくては困るのだ。私はショックを受けてイカは一杯すら手にすることは出来なかった。
 それにしても十年以上も手にすることのなかった水中ウキを持っていって散々てこずった挙句、その翌朝これまた十数回同じ船頭の船に乗っていて一度もやったことのないイカ釣りに出くわして、まったく同じ水中ウキが目の前に投げ出されるとは実に神様はイタズラ好きである。
 この事件以来、三人の生徒の私を見る目は確かに変わってきたような気がするのである。

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