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呪い:お姉ちゃんなんだから【中村うさぎエッセイ塾課題】

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以下は、中村うさぎエッセイ塾の「テーマ:今までの人生で、もっとも不快だった体験、あるいは人物について」という課題で提出した、1万字近いエッセイです。
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私の初めての土下座は、10歳だった。3歳から習わせてもらっていたクラシックバレエについて、父と「小学校の通知表で、“優”が8割を越えていなければ辞めさせる」という約束をしていたのに、算数が“良”で7割5分だったからだ。
厳しい顔をした母に、「約束を破ったお姉ちゃんが悪いんだから、お稽古代を出してくれているお父さんに誠心誠意を込めて謝って、続けさせてほしいとお願いしなさい」と言われ、幼心に「とんでもない罪を犯してしまった」とショックを受けながら、泣いて土下座した記憶がある。
父は難しい顔をして、“最難レベル”と書かれた算数の問題集を取り出し、「今回は続けさせてやるが、その代わりお稽古前にこれを3ページずつ解きなさい」と言った。2つ下の妹は、母と同じ顔をして、母の影に隠れていた。

これがおかしいと気がついたのは、中学に入ってからである。バレエは私と妹と、それから母も習っていた。
(ちなみに、母は職業バレリーナでもなんでもない。本人も3-15歳まで習っていて、妹が習い始めたのを機に、趣味として再開しただけだ)
それなのに、続けるための条件がつけられているのは私だけだった。妹は通知表の“優”が7割以下が常だったが、「妹ちゃんはいいの」と何故かスルーされ、謝ることも、罰としての問題集を解かされることもなく、平然と続けていた。私が「なんで妹ちゃん(私は母に、妹を呼び捨てすることを禁じられているのである)はいいの?なんで待子だけ?」と問うても、「お姉ちゃんなんだから当然でしょ」という回答があるのみだった。

しかもよくよく考えると、私はバレエを習いたいと思ったことがない。自我が芽生えた時には既に習っていて、気がついたら“私が”習いたいから習わせていただいている、という状況になっていた。おかしい。私、バレエ習いたいなんて自分から言ったことあったっけ?

気になって、母に、そもそもどうしてバレエを習わせてもらっているのかを聞いてみた。そうしたら、
「お母さんの実家は武家だったけど、血筋として、生まれたときに股関節脱臼しがちな女系の遺伝があるの。お母さんもそうだったし、妹ちゃんもそうだった。リハビリとしては足を外に外に開くバレエが一番いいから、妹ちゃんに習わせようと思ったんだけど、一人じゃ可哀想でしょ?お姉ちゃんだって武家の血を引く長子なんだから、良家の娘としての嗜みはできて当然だし、下の子よりできて当然だもの」
という回答だった。

よくわからないが、私は武家の血を引いているから、お嬢様としての嗜みを身につけることは当然のことらしく、また長子が下の子よりも秀でているのが当然らしい。
確かに母の実家は大変裕福で、亡くなった祖父、今年90になる祖母、母の兄(叔父)は一流大学を出ていた。「どこどこに3台しかないピアノ」が家にあり、ピアノの先生を家に呼んで祖母・叔父・母で習っていたらしい。叔父は、バトミントンで国体に出たとか、理系だからあえて東大ではなく東工大に行ったとか、今はどこどこ企業のインドネシア拠点の社長だとか、とにかく母から聞く逸話は尽きない。母は母で、通っていた公立小学校から初めて御三家に進学したとか、ピアノ・バレエ・絵画・英会話・裁縫・料理と、“よき妻・よき母”になるための嗜みは一通り修めただとか、でもトップクラスの私立大学には1浪させてもらったのに落ちちゃったから、やっぱり兄は私よりすごいんだと思ったとか、だからお姉ちゃんにはその大学リベンジしてほしいのとか、そんなことばかりを聞かされて育った。

でも、体感としてうちはそんなに裕福ではないことはわかっていた。アパート暮らしだったし、バレエの発表会があるごとに父と母がお金のことで揉めるのを見てきたからだ。祖母からの援助で家計が回っていたことも、なんとなく知っていた。

であれば父はどうか。父の実家は武家ではないし、父だけが大卒だった。お金的にも、バレエには反対してるのではないか。父にバレエについて問うと、
「お母さんの言う“良家の嗜み”は馬鹿馬鹿しいと思っているけど、今は治ったとはいえ妹ちゃんの股関節は可哀想だし、バレエで良くなるならいい。お前に習わせてやることも、学力上位を維持できるならいいと思ってる。妹よりお前ができるのは当然、というのも同意で、俺も3兄弟で同じ競技やってたけど、兄貴はプロになって俺は国体止まり、弟は末っ子だから自由に生きてて、そういうもんよ。お前は長男みたいなもんなんだから、スポーツは国体ぐらい行けて当然だからな」
という回答だった。

妹は、幼少期股関節が外れていたから、治った今も「可哀想な、大事な子」。
私は、母としては、武家の血を引く娘だからお嬢様としての嗜みを身につけることは当然で、長子が下の子よりも秀でているのが当然。父としては、私は長男みたいなもので、下の子よりできて当然、スポーツも国体ぐらい行って当然。そんな感じのようだった。

しかし、成人してからわかったことだが、両親の期待をよそに、私は発達障害を抱えていた。ADHD(注意欠如・多動症)と、ASD(アスペルガー症候群)の併発。注意力が散漫で椅子に座っていられず、自分のやり方にこだわりがあり、愛着を築きにくい子供。発達心理学上の、「育てにくい子」だった。それに対して、親は厳格タイプ。親側にとっても、子供側の私にとっても、どちらも不幸な組み合わせだった。

この、今思えば両親の歪んだ「あたりまえ」と、私の持つ発達障害が、私の人生で最も地獄だった、実家暮らしの22年間を作り上げた。

幼少期から、否定された記憶しかなかった。
母からは、いつも他人と比較された。どうして〇〇ちゃんみたいにお友達と遊べないの、我慢できないの、静かにできないの。同じバレエ教室の〇〇ちゃんは、そのお母さんに「いつ次にレッスン?」と毎日聞くぐらいらしいのに、お姉ちゃんは全然聞いてこないし、休憩時間に先生に質問をしたり、自主練習をしたりもしない。熱意が足りない。お母さんがこれだけ手伝ってあげているのに、申し訳ないと思わないの?

習い事もつらかった。良家の娘の嗜みということで、母に強制的にピアノを習わされた。多動症を持っているから、椅子に座っての長時間の反復練習が苦手なのに、練習しないと私が泣くまで詰める。挙句の果てにはピアノの横に椅子を持ってきて、「お姉ちゃんが練習しないせいで、お母さんは家事・仕事のすべてを止めて見張っていなきゃいけなくなりました。ここまでしてあげてるんだから、練習しないのはおかしいよね?」と脅す。母は、いつも私に選択肢を与えた。実際に選べるものは1つしかないのに。バレエもピアノも、「あなたがやりたいのよね?お母さん、こんなに手伝ってあげているもんね?」と問われてしまえば、「はい」としか言えなくなる。「いいえ」と答えれば、私が好きなゲームや漫画や音楽プレイヤーを、取り上げられることが目に見えているからだ。そうすると、いつの間にか「私が希望して習わせていただいている」ということになっている。私の意志の否定。
でも、母の望む答えを返すと、「お姉ちゃんはいい子ね、私の大事な娘」と、愛をもらえた。

父は、成績など目に見える数値への否定が多かった。中学の部活で、市大会で5位に入賞して都大会に出れたときも、「全国出れないなんてダメだな」と表彰状に醤油を引っ掛けられたし、国語の模試で偏差値が70を越したときも、「数学が50じゃ意味ないな」と、褒められもしなかった。

また、これはまだ理由が掴みきれていないのだが、父は私の女性としての肉体を否定することも多かった。私は一重で頬が前にせり出ていたのだが(27歳現在は二重埋没・歯列矯正済み)、それを指して「細目のオカメちゃん」と茶化し、おかめ納豆が朝食に出るたび、パッケージを指さして「お前じゃーん」とからかった。また、私は人よりずっと毛深くて、更にアトピー故にあらゆる皮膚を掻き壊していたのだが(現在は医療脱毛を終わらせ、アトピーも新薬の自己注射治療で寛解している)、それを指して「真っ赤なおしりのお猿さん」とふざけた。私は乳児湿疹もひどかったらしいが、11歳頃からニキビが止まらなくなり、落ち着いたあとはクレーター肌になってしまったのだが(現在フラクショナルレーザーで焼いている最中である)、これを指して「松井秀喜~」と詰った。私がピンクのヘアゴムをねだれば、「似合うとでも思ってんのかよ」と鼻で笑い、私に買い与えられるものは、歯ブラシですら青や緑だった。私がスカートを履けば、「色気付いてますねえ」と囃し立てる。小学校・中学の頃は特にこのことで傷付くようなことはなかったが、この経験が、高校・大学・社会人と、女性として成熟していくことを困難にさせ、容姿についての強いコンプレックスを生んだ。

この両親の態度が、妹にも同じならば、たぶんまだもう少し受け入れられたと思う。しかし、妹へはそのような否定がなかった。それどころか、明らかに妹を優遇することが多かった。その中でも未だに腑に落ちないのが、「妹の将来歩ませたい道を、トライアル的に姉に歩ませる」という教育方針だった。バレエは上述のとおり、妹に習わせるために先行して私に習わせたが、同じようなことが他の習い事、塾、学校、部活にまで起きた。

生まれたときから股関節脱臼があった妹は、3歳でやっと歩けるようになったので、さすがに小学生1,2年のころまでは運動面で発達が遅れていた。それが可哀想なのは幼子にもわかる。でも、小学3年生にもなれば、彼女は運動面も平均に追いついていた。逆に私は身体面では健康で、父に似て運動神経はよかったので、体育はだいたい“優”で、特に別途何かを習って体育の授業に追いつく必要はなかったのだが、小学5年生のある日、突然水泳と体操の教室に入れられた。不思議に思いながらも、元々得意なのですぐに教室に慣れて、そこで友達ができたころ、水泳と体操が苦手な妹が後から入会してきた。そうすると周囲は、「待子ちゃんの妹なのね!」と、最初から妹を好意的に受け入れた。これが、ありとあらゆる場所で繰り返されたのだ。私は歌やギターを習いたかったのだが、これが許されることはなかった。なぜ妹の習い事ばかり付き合わされるのか聞いても、「お姉ちゃんなんだから妹を守って当然でしょ」という回答があるのみだった。
流石に高校すらその形式で母に指定されたときは、私の人生をなんだと思っているのだと反発したが、「この高校に行くか、働くか、どちらかにしなさい」と、また実質選べるのが1つの選択肢を与えられ、母の指定の高校に進学した。

そうやって、私は常に妹のために獣道を開墾させられたにも関わらず、妹は同じ高校に入ってくるなり、私に対して嫌がらせをしはじめた。女子高校生特有の、自分より劣った人を軽蔑してマウントを取ることで自分の優位性を確保する、あの感じ。これを瞬く間に高校内で吸収し、家の中にも持ち込んだのだ。家の中で、私は常に「お姉ちゃんなのにこれができてない、あれができていない」と怒られており、妹は常に「あの妹ちゃんがもうこんなこともできたのね、あんなこともできたのね」と褒められていた。この頃にはもう、妹は私の身長165cmを追い越すほど健やかに成長していたにも関わらずである。
いつも怒られているお姉ちゃんと、いつも褒められている妹の自分。妹は、「お姉ちゃんは私より劣っている。よっていじめてもいい」という判断をしたらしい。私に対して、姑息な意地悪、嫌がらせが始まった。そしてそれは父も母も確実に目にしていたはずなのに、妹を叱る、という選択肢がないのか、それを黙認した。私がやり返すと、「お姉ちゃん、また妹ちゃんをいじめて!」と私を叱る始末である。

例えば、洗面所で妹が私に話しかけてきたと思ったら、突然大きな声で「お姉ちゃん、そういうこと言ったらお母さん可哀想だよ!」と叫び、リビングに戻る。そうすると母はキッチンから出てきて妹を抱きしめ、「お姉ちゃん、またお母さんの悪口言ってたのね!いつもそう。文句ばっかりで。それに比べて妹ちゃんはお母さんを庇ってくれて、いい子ね」と、私を睨む。私が「いや、妹ちゃんが勝手に…」と言いかけたところで、私は妹の思惑通りに、母の怒りに油を注いだことを身をもって知る。母は、言い訳無用!とばかりに過去の出来事まで引っ張り出して説教を始め、私は黙ってそれに耐えるしかなくなった。それを妹は、母の背後でニヤニヤしながら見下ろしていた。妹がまだ高校1年生の夏の頃のことである。あまりの頭のキレ具合に、ハメられた身ながら脱帽した。と同時に、これは初手ではないな、クラスでも似たようなことをやっているな、と感じた。

また、妹はどれだけわがままを言っても、姑息な手を使っても、両親に許されることを悪用するようになった。私のものを盗んでは、母に「お姉ちゃんに意地悪された」と言いつけ、母に「お姉ちゃんなんだから我慢しなさい」と言わせては我が物にする。昔からこの傾向はあったが、頻度がとんでもないことになった。
また、妹は私よりできないことがあると父に泣きつき、父に「お姉ちゃんは本当はもっと△△できなきゃダメだけど、できてないよね」とか、「お姉ちゃんより妹ちゃんのほうが〇〇は上手!」などと私を下げる発言をさせることで、溜飲を下げていた。
これにより、昔から「私って無能でダメな子なんだなあ」とは思っていたが、それが加速し、自尊心と自己肯定感がかぎりなく低い高校生になってしまった。

私が「この家は地獄なんだ」と最終判断をしたのは、大学2年生の冬だった。母に「お母さんが一浪して落ちた大学にリベンジしてくれるよね、そうでなきゃ学費は出さない」と、もはや選択肢でもなんでもない条件を突きつけられ、奥歯が栄養失調になるほど勉強して大学生になった。だから、今までで一番努力したことを問われたら、大学受験と答えるぐらいには、必死になって勉強をした。ただ、家では妹様が常時電話やらTVやらで大騒ぎしていらっしゃるので、浪人生よろしく図書館の自習室に籠もっていた。だから、家族から見ると「家で勉強もせず出歩いてたようだし、ろくに勉強もせずあっさり志望校に入った」と思われていたのかもしれない。それでも、母のコンプレックスの一つである「トップクラスの私立大学にストレートで入る」ということをクリアした私に対して、いつしか母はあまり口出ししてこなくなった。やっと得た選択の自由。私は、ずっとやりたかった歌とギターをやるために、バイトを始め、大学では軽音サークルに入り、遅咲きの青春を謳歌していたところだった。

そのとき妹は大学受験期で、勉強面でも甘やかされていたツケを払わされていたらしい。私がバイトから帰ると、妹は模試が上手く行かなかったか何かで、不機嫌を撒き散らしながら、わざわざリビングで勉強していた。母は横のソファーに座って、妹をなだめつつ村上春樹を読んでいて、父は隣の畳の部屋でごろ寝をしながら、週刊文春を読んでいた。私はそのとき軽音サークルのライブが近くて、ギターを部屋で練習する必要があった。妹がリビングで勉強していることに気を遣い、ちゃんとアンプにヘッドホンを差していた。それでも、弦の生音が妹にとってうるさかったらしい。飲み物を取りにリビングへ出ると、妹に喧嘩をふっかけられた。「ズルして大学入ったくせに!」など、有る事無い事言われ、口論の流れで、「こんなことしてる暇あるなら勉強すれば?」と私が返した。これが妹の逆鱗に触れたようで、「お姉ちゃんなんて死ね!いなければよかった!みんなそう思ってるよ!」と、妹が吠えた。

これ自体、別にダメージはなかった。だって、たかが受験生の八つ当たりだから。でも、深く傷ついたのは、それを横で聞いていた母と、隣の部屋で聞いていたはずの父が、妹を叱りもせず、止めもせず、そのまま読書を続けたことだった。
ねえ、私が妹に対してそんなこと言おうものなら鉄拳制裁どころの騒ぎじゃないのに、完全に妹の八つ当たりでも、死ねとか、みんなそう思っているとか私が言われていても、妹は叱らないんだね。見て見ぬふりするんだね。妹の機嫌を損ねないことが、私の心のケアより大事なんだね。

そこから先はあまり記憶がないが、妹が勉強していたローテーブルを妹側に蹴り倒し、母を罵倒し、父を殴ったらしい。気がつけば最寄りの駅のホームにいた。
これだけずっと「お姉ちゃんなんだから」という、たったそれだけの理由で世界のすべての理不尽を飲み下していたのに、父も母もその負荷を全く把握しておらず、当たり前のことだと思っていることに絶望した。両親から「お前のために」と言われてきたすべてが、実際は何もかも嘘で、妹の盾や剣として私を思い通り操るためだけの、方便だったのだと感じた。そういえば、「お姉ちゃんとして我慢できて偉いね」と褒められたことは、一度もなかった。

ずっと両親の言う通りに耐えてきたのに、結局何をしても妹が最優先なら、私ってなんで頑張ってきたんだっけ。愛ってなんだっけ。生きがいってなんだっけ。生きるってなんだっけ。
そんなことをTwitterでつぶやいて、自己完結してしまって、このまま考えが変わらなければホームに飛び込もうと思っていた。
そうしたら、一人暮らしをしている学科の友人が、「深くは聞かないから、しばらくうちに来な。二段ベッドだから、何泊でも大丈夫。住所はLINEで送るから、着いたら電話して」とリプライをくれた。それに酷く救われて、その子の家に向かった。家に入れてもらったら、混乱したまま号泣してしまって、でもその子はただ背中をさするだけで何も聞かなかった。「話せるときが来たらでいいから、今はそれでいい」と、あやしてくれた。

翌朝、朝ごはんを作ってくれて、シャワーと着替えも貸してくれた。当時私は条件付きの愛しかもらったことがなかったから、ギブアンドテイクの関係性でないと心苦しく、宿代や食事代を払おうにも小銭しか持っていないことに葛藤があった。そんな中彼女は、
「前、あんたは無意識にやったことだろうけど、私はあんたに救われたことがある。だから、今度は私が救う番なだけで、お礼なんて求めてない。といってもあんたは気にするから、私が苦手な掃除代わりにやってよ。ルンバみたいに。それでどう?」
と言ってくれた。私の家庭環境をある程度知っている友人だったから、心の整理が付くまで私がここに逃げられるよう、理由と正当性を与えてくれたのだ。その後のことも考えてくれて、大学卒業まで一緒に暮らす算段までつけようとしてくれた。
ただ、2週間後に両親から電話が来て、自分たちの非を詫びてくれ、妹にもこれからは注意をする旨を約束してくれたので、ルンバ生活は2週間で終焉となった。

その後もちょこちょこ彼女は家に泊めてくれて、物理的に実家と距離をおいて物事を考えられるようになった。彼女の家もまた複雑な環境だったが、それでも私の家は異常であること、「それぞれの家庭の“あたりまえ”は、別の惑星ぐらい違うから、親のあたりまえをそのまま受け入れる必要はない」ということを教えてくれた。
そこで私は「就職したら一人暮らしをして、実家から脱出し、両親と縁を切る」と決めたのである。家から出た後も親の呪いは手強く、コンプレックスとして悩まされた。これをしたら母に嫌われるのではないか、こんな服を着たら父に罵られるのではないか。それらを一つ一つ友人たちに解呪してもらい、容姿については金の力で解決し、今の私がある。

今、私は27歳になった。母が父と結婚した歳だ。誕生日を迎えれば、母が私を生んだ28歳になる。彼女と同じ歳を迎えてやっとわかったが、彼女もまたコンプレックスだらけだったのかもしれない。本人も言っていたが、彼女は実家から逃げ出したかったらしい。武家の娘だけど、御三家の中高にいる本物のお嬢様たちには、家柄も、嗜みも勝てない。叔父は完璧なのに、自分は一浪してMARCHにすら入れない。祖母からは、「同じように育てたのにこの子は…」と不憫な目で見られる。家から出るにも、当時は総合職に就ける女性なんて本当に一握りだったから、結婚しか方法がなかった。だから、生活力はないが稼ぐ力はありそうな父を、掴まえるようにして結婚したらしい。

ここから先は推測だが、彼女は新たに作った家庭で、祖母を見返したかったのかもしれない。「私だってちゃんとした優良な家庭を作ることができます」、と。だからお行儀や嗜みなどにうるさかったのだろう。
また、彼女も幼少期に股関節脱臼があったのは聞いていたが、なんと両足だったらしい。そのせいで、小さい頃は通常発達の子供たちから遅れを取り、嫌な思いもしたそうだ。それもあって、同じく股関節脱臼のあった妹に、母は自身を強く投影していたのだと思う。幼少期は健常者よりビハインドがあったのに、優秀な叔父と比べられた自分。優秀なくせに、あまり自分を庇ってくれなかった叔父。それを汲み取ってくれない祖母。だからこそ、私には必要以上に「お姉ちゃんなんだから」という呪いをかけ、母自身は妹を優遇し続けたのかもしれない。自分がそうされたかったから。

父は父で、私も社会に出てからわかったことだが、彼の私への接し方は、上司と部下のそれに近いものがあった。それも昭和の。部下は褒めず、もっともっとと煽って奮起させる。成人男性同士ならそれでもいいだろうが、まだ心が育っていない子供にそれをやるのは、あまりにも無茶だと思う。
私への容姿いじりや、女性らしさの否定は、未だに根幹がよくわかってはいないが、事務職女性へのコミュニケーションが近いのかもしれない(今それをすると完全にセクハラだが)。
父と母の結婚は、完全に母の都合で進んだらしい。だから、彼は父親になる覚悟や自覚が持てぬまま、父親になってしまったのかもしれない。そのせいで、親子の関係性を新たに作るのではなく、自分が持ってた既存の関係性を、親子関係にも持ち込んだのかもしれない。

また、彼は20代後半で両親を病気で亡くしている。それ自体も何かしら影響があったと思うが、そのとき、彼の兄(叔父)は喪主も何もしてくれなかったらしい。叔父はプロアスリートを引退したあと駆け落ちし、それっきり家と縁を切ったからだ。彼はそれをかなり根に持っていて、「手本だった長男が、無責任にも俺たちを裏切った。お前は長女なんだから、ちゃんと墓の管理はお前がしろよ」とよく言っていた。このことも、私への「お姉ちゃんなんだから」の呪いを増長させたと思っている。

生まれてから実家を出るまでの22年間、両親からは、たぶん、おそらく、きっと愛も与えられていたはずだが(そう思いたい)、私は呪いばかりを受け取ってしまった。この呪いは、家を出てからの5年間、恵まれたことに友人たちが、一つ一つ解呪をしてくれている。
両親と完全に連絡を絶った上での一人暮らし自体も、自己肯定感の向上と維持に貢献してくれた。外で獲得した自信を、家で否定されることがなくなったからである。未だに夢で両親に否定される幻覚を見るが、夢の中でも「いや、今は一人暮らしのはずだ!」という切り札を思い出すことで、私の中に住んでいる、ネガティブな両親像に日々抗うことができている。そうやって、物理的に両親と距離を取り、かつ自分の中の凝り固まった両親像に抗うことで、最近は両親を第三者化することができるようになり始めている。

そのおかげか、今では父と母側の気持ちもなんとなく理解することができるようになってきて、昔ほど恨みはない。もう少しして、例えば私が自分について「私は何かができるから人に愛されるのではなく、生きている時点で愛される価値がある」と思えるほど自己肯定感が高まったら、飲みに誘うことができるかもしれない。
現在、父と母も既にアラ還(55~64歳)である。父方の叔父のように、喪主すらせずにお別れとはならないよう、だが、焦ってこの5年で培った自尊心を損なうことのないよう、私は自分で納得できる私を目指して、日々を積み重ねるしかないのである。

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