〇、×にこだわない算数教育を考える
「×」は「罰」なのか
「間違ってはいけない。」と我々は教わってきました。計算間違いしては×になり、わからなければ×になる。
×になるは、「罰」になるという発音が等しく、間違ってしまうとダメだと。何か社会的な罪に問われるような、だから罰を受けるようなそんなニュアンスすらも感じさせてしまうように思います。
しかし、残念ながら真実があります。それは間違っているときに、多くの学びがあるということです。正解の道を何度も、何度も歩んでいても、学びは決して多くはありません。
経験上も言えます。当然算数を学ぶときには、絶対に答えの出る解法を学びます。もちろんその方法で解こうと毎回するのですが、たまにちょっとしたきっかけで別の解法を選んでしまうこともあるのです。
しかし、そんなときに、ふとした寄り道をしたときにこそ、エラーがあったときにこそ学びがあると思うのです。
公式をなぞるような解き方を何度もしていて、何を習得するでしょうか。もちろん、正解は出せる確率は上がりますが、理解には決してつながらないと思います。なぞっているだけです。その問題の理解も「謎っている」ことでしょう。
思い切って、全然違うアプローチをしてみる。例え間違っていても最後まで解き切る。でも、全然違う答えが出る。そしたら、見直す。何が原因かを探る。とてもシンプルなPDCAサイクルです。値を入れてを繰り返し、アプローチ方法を変えてはテストを繰り返すのです。
算数だけではない、すべて同じ
私も立派な人間ではなく、何度も間違いを行ってきました。もちろん間違いといっても、基本的に法律の範囲内ではあります(笑)人を傷つけたこともありますし、コミュニケーションをとる中で、なんてことを言ってしまったんだろう。と家に帰ってから反省したことは何度もあります。
大学時代に学生団体を立ち上げましたが、全然うまくいかず。「堀口さんが代表の団体は価値がないので辞めます。」と対面で言われたこともあります。
会社を立ち上げてからも、団体運営はあっても、ビジネスとしての継続性が求められる会社運営なんて当然一度もしたことはなかったので、いろいろな挑戦をしては失敗し、今に至ります。何度もいろんな人からアドバイスをもらいながら運営をしてきました。今では多くの優秀なメンバーに支えられ、苦手な領域はメンバーに任せることができており、ただただ感謝していますが、そこまでの道のりは当然、順調ではありませんでした。
でも、本当に良かったと思っています。なぜなら、間違ったからこそ、得るものは多く、大変人生の勉強になりました。
今は、「正解」の道しか教わることがほとんどありません。ちょっとでも道を踏み外しただけで、「間違ってるよ。」「おかしいよ。」と言われることもあります。本人は、全く間違っていると思っていないのに、間違っていると言われてしまう。もちろんそれは優しさでもあります。でも、時に間違った道を歩みたいときだってあるのです。歩んでみないとわからないこともある。他の人に見えない景色は、他の人の歩んだ道にはきっとないのです。
〇×を付けない算数教育の在り方
〇を付けたら、自信になる。×を付けたら落ち込んでしまう。でも、そんな計算問題はすべて電卓やエクセルに変わるのが大人の世界。そんな細かい世界に一喜一憂することにどれだけの意味があるのか。
もっと柔軟に計算や算数、数学に取り組んでみてはという話です。なんなら、正解をも教わらない数学教育の形があってもよいのではないでしょうか。
だからこそ、間違ってもよい教育。間違ってもよい算数、数学教育があってもよいと思います。
理由は、シンプルです。間違った時に、多くを学べるから。少ないプロセスで、多くの学びをいかに得られるのか。一講師として算数にどう向き合っていくのか。よりよい計算について、日々思考し、試行し続けています。
<文/堀口智之>
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