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【美術展2024#87】ハニワと土偶の近代@東京国立近代美術館

会期:2024101()1222()

出土遺物を美的に愛でる視点はいつから芽生え、一体いつから出土遺物は美術作品のなかに登場するようになったのでしょうか。戦後、岡本太郎やイサム・ノグチによって、それまで考古学の資料として扱われていた出土遺物の美的な価値が「発見」されたというエピソードはもはや伝説化しています。「縄文vs.弥生」というきわめて分かりやすい二項対立の語りは、1950年代半ばに建築・美術にかかわる人々の間でいわゆる「伝統論争」に発展しました。しかし、近代以降、地中から掘り出された遺物に着目した人物は彼ら二人にとどまりません。出土遺物は、美術に限らず、工芸、建築、写真、映画、演劇、文学、伝統芸能、思想、さらにはテレビ番組にいたるまで、幅広い領域で文化現象を巻き起こしてきました。
なぜ、出土遺物は一時期に集中して注目を浴びたのか、その評価はいかに広まったのか、作家たちが遺物の掘りおこしに熱中したのはなぜか——本展は美術を中心に、文化史の舞台に躍り出た「出土モチーフ」の系譜を、明治時代から現代にかけて追いかけつつ、ハニワや土器、土偶に向けられた視線の変遷を探ります。歴史をひもとき、その複雑な機微を知ることで、私たちの足下に積み重なる文化的・社会的な「地層」が浮かびあがってくるでしょう。

展覧会公式HP


同時期開催中のトーハク「はにわ展」から埴輪絡みの展覧会をハシゴする。
ちなみに今回、トーハクは「はにわ」、東近美は「ハニワ」としているので、この記事の中での包括的呼称としては「埴輪」とする。


トーハクの「はにわ展」は、「挂甲の武人」国宝指定50周年ということでそれを祝うために全国から集結した埴輪たちによる祝賀会のような展覧会だった。
全国の主要な埴輪はトーハクに出張中なのでこちらには何が展示されているのか、トーハクとの関連があるのか無いのか、埴輪つながりということで楽しみにしていた、のだが。


1979、ここ竹橋東近美の地下収蔵庫新設に先立って行われた発掘調査にて出土した土器から展覧会は始まる

現在は国立歴史民俗博物館に収蔵されているようだ。フムフム。


松浦武四郎記念館所蔵の河鍋暁斎。
今年の静嘉堂文庫美術館での「河鍋暁斎展」にも出品されていた作品だ。

《野見宿禰図》1884 河鍋暁斎


《埴輪》1916頃 都路華香

こちらにも野見宿禰登場。
こちらの作品は明治天皇陵の造営期と同時期ということで埴輪ネタを皇室に結びつけてくる

明治政府の古墳保存行政において、陵墓の調査は重要事項となる。「万世一系」の天皇の系譜を体現するためである。古墳から出士した遺物は「古代の沿革を徴するもの」が選抜され、上野の博物館に買い上げ収蔵の権限が与えられた。1886年に宮内省へ移管され、帝国博物館(1900年に帝室博物館に改称)は、埋蔵物として届けられた出土品のなかから優品を皇室財産として収集することが可能になったのである。日清・日露戦争後の国内景気の活況で、鉄道路線の拡張など、開発に伴う埋蔵物の発見も増加したという。帝室博物館に選抜された考古遺物は、考証の知となり、近代の画家たちの古代イメージの創出を促した。

会場キャプションより


明治天皇陵に奉納された埴輪が資料の中に登場。
そもそも埴輪は本来こういう意味合いのものだ。
ついさっきトーハクでそれと同じ型から作られたという実物を見たばかり。↓

トーハク「はにわ展」


1-2 紀元2600
考証の具ではなく、考古遺物であるハニワそのものの美が称揚されるようになったのは、1940年、皇紀2600年を目前とした時期だろう。神武天皇の即位2600年にあたり、その奉祝のためにモニュメントの建設をはじめ、様々な国家イベントが計画されていた。日中戦争が開戦し、その影響でキャンセルとなった幻の東京オリンピックもその一つである。「仏教伝来以前」の素朴な日本の姿としてハニワの美が語られるようになり、様々な雑誌でハニワ特集が組まれ、絵葉書も発行されている。戦争を背後にした国粋的な高揚のなかで、ハニワのイメージは人々の生活のなかに浸透していったのである。

会場キャプションより

1-4|神話と戦争と
1938年4月、国家総動員法が公布され、総力戦遂行のため、国家のすべての人的・物的資源を政府が統制運用できるようになると、ハニワも戦意高揚に動員されるようになる。野間清六の著書『埴輪美』の序文において、詩人で脱刻家の高村光太郎は武人姿のハニワの面貌に南方戦線に赴く若い兵士の顔を重ね合わせ、「その表情の明るさ、単純素朴さ、清らかさ」を賛美し、考古学者の後藤守ーは、少国民選書『埴輪の話』のなかで、「ハニワの顔をみなさい」と呼びかけた。子を背負った母のハニワは、あたかも涙を流さず悲しみをこらえる表情のように撮影された。ハニワの顔は「日本人の理想」として軍国教育にも使役されていたのだった。空ろな眼をしたハニワの美は、戦時を生きる人々の感情と結びつき、共感を集めていくという危うさをはらんでいたのである。

会場キャプションより

…なんだかだんだんキナ臭くなってきた


この《子持家形埴輪》も先ほどトーハクで見たが、ここの解説でもやはり無理やり日本軍とかに結び付けようとする企画側の恣意的な意図が見え隠れする。


「ハニワと戦争は表裏一体であった」って流石に無理筋ではないだろうか?



「皇国史観に基づく歴史記述の脱却と克服」とか「戦争体験を乗り越えていく過程において、歴史の読み替えに強く作用した装置」とか、なんだかこの辺りから企画側の露骨なストーリーが目立つようになってきた。

海を渡り、欧米の文物を見聞する旅から帰って、改めてハニワや土偶を「発見」した画家たちがいる。西洋が「原始美術」を発見した過程をなぞるように、西洋合理主義文明のなかに忘れられた存在をコスモポリタンの眼で新たに見直すというものだ。西洋のモダンアートの延長線上に、自国の遺物を捉える。
「インターナショナルな観点からナショナルなものをながめようとする視野」(花田清輝)である。国立博物館のマチス展担当者であった嘉門安雄は、同僚の考古学者に王塚古墳の写真を見せられ、「どうだ、日本だってマチスがいるだろう」と教えられたという。日本固有のもののなかに世界性を探すという視線は、戦中のモダニストたちの「前衛は日本にあった」という主張と地続きでもあった。

会場キャプションより

1954年に国立近代美術館で開催された「現代の眼:日本美術史から」展の図録の「概観」にはこう述べられている。
「新しいものは古い殻を破って生れねばならぬ。しかしまた新しいものは、古いものを踏み台として、更に高いところに達しなければならないのである。過去の遺品を生かすのは、それの見方である。西洋の美術が古いエジプトやギリシャの古い美術からつねに新しい刺載を求めているように、われわれも日本の過ぎた日の美術の中から、新しい世に伸びてゆく芽を発見しなければならぬ」。1950年代の美術作品には、この言葉のとおり、出土遺物のイメージを伴う作品が数多く登場する。「現代の眼」とは、過去の眼と決別することであり、戦中の「ハニワ美」の記憶を忘却していくことでもあった。

会場キャプションより

1954年の《埴輪 踊る人々》は、結構ヒビが入っている。

1954年
修復前 2016年 トーハクにて
修復後 2024年 トーハク「はにわ展」


立体系の作品群。
イサム・ノグチや岡本太郎の陶作品が並ぶ。

左の岡部嶺男については、

1954年頃から岡部嶺男(1919-90)は、縄目の圧痕を施した「縄文」シリーズを手がけている。それらはいずれも織部釉や志野釉など、戦前から得意とした釉技と縄文土器に見られる形のイメージを組み合わせたものだった。岡部は「原始と原始」(『加茂タイムス』1960年1月1日)と題した文章のなかで、「縄文土器などみてみると現代作品であるかの如き錯覚を起こす時がある」。「南の海に敵潜水艦に追い廻されるとき、瞬間の存在を感じ、二ヶ月の食糧なきジャングルの生活はイヤ応なしに私を縄文時代へとつれもどしました」と自らの従軍体験の記憶を蘇らせて語っている。[H]

公式図録キャプションより

とのことだが、そりゃあ戦前戦後を生きた作家だから、戦争についてのコメントもあっただろうけれども、それがこの作家の全てとも見紛うような切り抜きをしてまでもどうしても戦争に結びつけようとする強い意志を感じる。



「女の顔」シリーズ 『フォトアート』

1959年の1年間表紙を飾った土門拳<女の顔>シリーズ。夜写体は縄文土偶から女人ハニワに、背景は自然から都会の街中へと移り変わっていく。二重露光や無機物との合成は「より複雑な、より次元の高いリアリティ」を実現するためだというが、「非演出」を旨とした土門のリアリズム写真と大きく異なる。ハニワは「天皇に従順な家来」だとする土門は、高度経済成長下の現代人をハニワに重ねたのだろうか。

会場キャプションより

この辺りになってくると、さすがにもうどのように戦争とか天皇とかにこじつけてくるのか、逆にある意味楽しみになってきた。




懐かしい品々。
キン肉マンやビックリマンシールあたりはかれこれ40年前くらいにリアルタイムで通ってきた

ハニワと土偶は、1950-60年代に美術で注目されたのち、70年代以降にサブカルチャーを介して広まっていく。SFやオカルトの流行を背景に、「異人」や「異界」を表す格好の素材だったことが大きい。
1966年の特撮映画『大魔神』以降無数の例があるが、総覧すると登場イメージの極端な偏りに気づく。ハニワは「推甲の武人」か「踊る人々」、縄文関連は「遮光器土偶」か「火焔型土器」。サブカルチャーでは先行するイメージがコピーされ、「ミーム」となって増殖しやすいからである。そのとき、与えられる意味合いも継承される。武人ハニワは勇ましい主人公、踊るハニワは愛らしい同胞で、土偶は恐ろしい敵、土器は不可解な呪物、というふうに。これは、弥生時代と古墳時代を上層文化に位置づけ、縄文時代の遺物は民衆のエネルギーを示すと論じていた戦後の芸術家たちの見立てと正反対である。

展覧会キャプションより

どうなんだろ。
漫画やキャラクターはわかりやすい要素を抽出して省略したり強調したりするのがお家芸なだけで、当時の漫画家がそこまで意識して埴輪や土偶のイメージを使い分けていたとは思えないのだけれど。
そしてここに提示されたものだけが埴輪や土偶を扱った全てではないとも思うし。

もう完全に企画側との対立軸としての視点で見ている私がいる。


《富士のDNA》1992 タイガー立石

中央にいるのは、若い頃のタイガー立石自身。画面中に散らばっているのも立石の過去作である。左上には逆さの土偶が並ぶ。土偶の絵本も作った立石だが、国粋主義的な意味を持ちやすい富士山をあえてポップに繰り返して描くなど、彼のモチーフの取り扱いは、単なる愛着とは限らないねじれた感情をはらんでいる。

展覧会キャプションより

とことんねじ込んでくる


そして展覧会最後の作品。

《皇太子様ご結婚式 1959年(昭和34年)1月16日 東京新聞》 田附 勝

当館の地下から発掘された土器片から始まった本展は、当館が開館した1950年代の新聞記事と土器片の写真で締めくくられる。
主に日本各地の土着文化を写真に収めてきた田附勝。「KAKERA」は、博物館収蔵の土器片を、それを包んだり下に敷かれたりしていた新聞紙の記事や広告とともに写したシリーズ。
保管状況そのもののドキュメントでありつつ、社会が目まぐるしく変わり、土器片に注がれる視線もまた時代ごとに変容していく様を活写している。
土器片の保護用にしばしば使われる新聞紙そのものが、時代を保管していることに作者は注目した。「いくつにも積み重なった地層。表層と深層を繋ぐ時間」に関心を持ったと田附は語る。ここに写る土 片が保管されようとしたとき、世の中は皇太子御成婚のニュースで持ち切りであった。
1959年という年はまた、高度成長の加速とともに土が掘り返され、続々と古墳や遺跡が発掘されていく時期でもあった。

展覧会キャプションより

本展覧会が「発掘された土器片から始まった本展」として収束するならば、ここでは1979年の新聞記事にしなければならないだろうし、美術館が開館した年として結論づけるのであれば1952年の新聞記事でなければ意味がない。
だがここで「当館が開館した1950年代」と幅を持たせて、数ある田附氏の作品の中からあえてこのくしゃくしゃにされて泥が付いた上皇陛下の写真を展覧会の最後の作品として用いるところに企画側の悪意を感じる。


あえて言おう。
皇居の目の前で国立の美術館が何やらかしてくれてるのよ
最初から最後まで不敬にも程があるだろ


作家自身が何らかの政治的意図のもとに作品を作り、政治的な表現をすることはあると思うし、それはそれで良いと思う。それこそ表現の自由だよ。
(そのような作品は主張やパフォーマンスが先行して作品そのものとしての表現は脆弱なことが往々にしてあるが)
だが企画側が初めから多角的事象の一面のみを強調したような筋書きありきで、それに沿うように世の中に数多ある作品群の中から意図的に自らのストーリーに当てはまる作品を集め切り貼りして構成し、それが全てであるかのように歴史を語るのはいかがなものか。

中には日本美術史的にはほぼ無名な作品群の中から埴輪が描かれているというだけで無理やり見つけてきてこじつけのような解説を付している作品も少なからずあった。
そもそもそれらの作家本人はその当時本当にそういう意図で制作していたのだろうか。
企画側の主張が強すぎて、皇室のみならず出品作家への敬意も感じられない

森美術館の「ルイーズ・ブルジョア展」でも企画側のストーリーが強く見えていて少し興醒めしたが、まあ森美術館は私立美術館だから言ってみれば尖った企画でも無理筋な主張でもなんでも好き勝手やればいいのだ。
それらが積み重なって美術館の個性になっていくし存在意義にもなっていく

世の中にはさまざまな視点や思想がある。それはいい。
だが東京国立近代美術館よ、あんたはそれでいいのか

はに丸で可愛く終わらせようとしてもダメだよ。

私は昔、青年海外協力隊に参加した時、出国前に東宮御所にお招きいただき皇太子殿下(現天皇陛下)への謁見を行ったことがあるので瞬間風速的に皇室との微々たる接点があるにはあるのだが、今も昔も取り立てて熱烈な皇室信奉者というわけではない。
だが神話も含めた日本の歴史には誇りを持っているし、日本国民として皇室に対しての敬意や、日本を作り護ってきてくれた先人たちへの感謝の意は持っている
それはごく一般的な日本人の感覚ではないだろうか。


もやもやした気持ちのまま会場を後にする。



出口のミュージアムショップはこれもんだった。↓

おいおいおいおい。
これだよこれこれ
これこそ今回トーハクがやらなければならなかったやつだよ。

なのにあちとらさんときたらすみっコぐらしとのコラボなんかで日和りやがった。↓

東京国立博物館「はにわ展」特設サイトより


くそう、東近美め、なんか今回ムカついたから絶対金を落とすまいと心に誓ったのだが、

むぐぐ。
ええい、ままよ!行ったらあ〜!!


また増えた
(そして、また嫁に怒られた…)
いや、違うのだ、これはアーカイブなのだ。
つまり私が100年後に残したいものなのだよ…ボソボソ
言い訳が以前と同じということで、嫁、さらにブチギレ…)

増殖中



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