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人間関係の取捨選択は、ある程度必要。

言葉を紡ぐという行為は、どこまでも慎重にならなければならないと思っています。自分から発せられる言葉は、思いもよらず他の誰かの心に届き、思いもよらない届き方をすることがあるからです。

「ペンは剣より強し」とは、本当にその通りで言葉ひとつで他の誰かの人生を狂わせたり、さらには人生そのものを奪う可能性があります。

平気で他人に対して、きつい言葉を浴びせかける人がいます。「パワハラ」「モラハラ」が問題となっているにも関わらず、それは減るどころか増加しているように感じます。「パワハラ」「モラハラ」の主体者はそれをやめようにも、もはやそれをやめることができない体質、ただしくは心質になってしまっているのだと思います。

今日は思うところがあって、そのことを考察してみたいと思い文章を書き始めました。「パワハラ」「モラハラ」の、その行為を主体者が正当化するときの常套句があります。

「これはあなたのことを想って言ってることだ」
「これは私のあなたへの愛情だ。」という言葉です。

本当に愛情豊かな人の"ような"人間の発する「詭弁」

もちろん、相手のことを思って、言葉が強くなってしまうこともあるでしょう。僕にもあります。でも、僕が、相手に対して言葉を強くしてしまうときに、必ず持っているルールがあります。「相手を絶対に見放さない」というルールです。自分の強い言葉によって、相手は深く傷つく可能性があります。そのことによるリカバリまでをも、しっかりやり遂げる覚悟を持って言葉を発するというルールです。なぜなら、それこそ相手に愛情があるからです。

でも、「パワハラ」「モラハラ」が問題になるときは、その人間関係はもはや破綻しています。したがって、「相手を想っての言葉」「相手への愛情ゆえの言葉」という言葉は、誰も受取手のいない自己弁護のためのむなしい言葉でしかないのです。だから詭弁だと僕ははっきり断言できるのです。

相手を思うのなら、誠心誠意言葉を紡ぐ必要があります。その言葉を紡いだ後は、肉体労働を終えたあとのようにヘトヘトになるほどの疲労感が伴うくらい、精神を慎重に使うべきだと思うのです。

僕も「あなたのためを思って言っている」という常套句とともに、謂れのない強い言葉をぶつけられたことが多々あります。でも、その都度感じるのは、その言葉は僕を思うというよりも、その言葉の主体者が自分の言葉に酔っているんだな、ということ、そして、その言葉に酔うことで僕は利用されているということです。なぜなら、その言葉は僕に何一つ響かないからです。だから、言葉を紡ぐというより、まさにぶつけられているという表現が正確なのです。

以前からこのnoteにも何度も書いていますが、他人対して批判、非難をするときというのは、自分がその人よりも上に立っていると錯覚することができます。それは、本当に気持ちのいいもです。快楽と言ってもいい。

でも、それは一時の快楽ですが、それは一生の恥につながります。

なぜか?

他人に上からモノをいうなんてことは、みっともないことだからです。
品がないことだからです。

「何様だ?」

その言葉ですべてが片付いてしまいます。

さらに、なぜ人の上に立とうしなければいけないのか?
その理由は簡単で、その人が"そうでもしないと上に立てない"からです。

僕は、地位や名誉などを持った有名な方達としばしばお会いすることができる機会に恵まれています。本当にすごい方ばかりなのですが、そのたびに思うことは「本当に偉い人は、偉そうじゃない」ということです。

誰よりも腰が低く、低姿勢で、謙虚で、柔らかく、温かい方達でした。

それが本当にかっこよくて、僕は、幸いにしてそんな方達とお会いさせていただいたことがあるがゆえに、「本当のかっこよさ」を知ることができました。だから、天狗になって、他人よりも上に立とうとすることがみっともなく、心から「下品」だと思うんです。

知人に、すぐに風船のようにふわふわと浮かび上がり、他人に対して指導的に、上からモノをいう人がいました。彼はそのことによって、何度も人間関係において失敗をしていました。彼はその部分以外は、とても良いところばかりなのに、その部分によってまさに台無しになってしまっている人でした。僕は、何度もそれを指摘しましたが、それが改善することはありませんでした。なぜ、そんなに失敗を繰り返すのに、改善しないんだろう?と、僕は不思議でしたが、やはり「偉そうな自分」にかっこよさを感じているんでしょうね。

ここまで書くとそんな人本当にいるのか?と思うでしょうが、実際にいるし、その数は結構多いんじゃないでしょうかね。僕はそんな気がしています。だから、「パワハラ」「モラハラ」って減らないんだと思います。

だって、自省するってとても難しいことだし、間違ったかっこよさを目指す人にとってそれは極めて難しいことでしょう。

ここまで考えると、この世界から「パワハラ」「モラハラ」がなくなることはないでしょう。とすれば、自衛するしかその解決の方法はありません。

でもね、僕は思うんだけど、品高くかっこよくに生きようとする人間に、下品な人間は近づけません。だから、その下品な人間をどうにかしようとする解決策ではなく、自分自身を高めてかっこよくなる方が、最高に効果的な解決策だと思います。

僕はそのことに集中しています。無駄な人間関係は、自然に淘汰され、必要のない人間は離れていきます。それが自然の摂理です。

他人はコントロールできないけど、自分のことはコントロールできます。
世界をどう良くするかは、自分次第です。

下品な相手が近くにいるとすれば、それは自分がまだまだだ、ということの戒めにもなるのだと、僕は思っているんです。

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