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瞑想とフィジカルトレーニングは、人生のクオリティを高めるための投資。

ここのところ僕の瞑想のレベルが上がった。実際に瞑想をしている最中にもその変化を実感するし、僕の主要業務であるコーヒー豆の焙煎をしている最中にもその時間の集中力の高くなったように思う。

前回のnoteにも書いたけれど、パーソナルトレーニングでフィジカル面の改善を指導してもらうようになった。

指導を受けるようになって、まだ1ヶ月なのだけれど身体への意識が格段に高まったことを実感している。そのことによって、より瞑想にも丁寧に取り組めるようになった。瞑想の種類の中には、自分の身体の各部位それぞれに意識を向けていくという方法がある。それを「観照(かんしょう)」というのだけれど、それがより丁寧に行なうことができるようになり、より深く瞑想に入っていけるようになった。

指導してもらっているパーソナルトレーニングでは身体性を高める、モビリティを高める、つまりは「動ける身体」を造ることを目的に指導を受けているので、自然と身体に意識が向くようになったのだ。トレーナーの方からも「身体の声を聞く」ということを意識するように指導してもらっている。例えば、背骨を一個ずつ動かしたり、肩甲骨だけを動かしてみたり、足の指を一本ずつ動かしてみたりというように、これまでの暮らしの中ではまったく意識してこなかったことを意識が向くようになった。そんな新鮮な感覚が「観照」に活きている。瞑想をしながら身体に意識を向け、トレーニングしながらも身体に意識を向けられることで、相互的に関連し合って相乗効果があるように思う。

前回も書いたけれど、僕はやはり人生をさらに充実させ高めていきたいという気持ちが強い。そこへの想いには揺らぎはないからこそ、高い集中力を持って瞑想やトレーニングに向かうことができるのだと思う。

僕のnoteを読んでくださっている方から「続けることが出来ない」という相談をよく聞くのだけれど、続かない理由は100%目的が明確化されていないからだ。僕が継続することが得意なように見えるのは、シンプルにのはやりたいことしかやっていないからだと思う。やりたいことしかやっていないので、その目的がいつも明確なのだ。

観察していると極端な人ほど続かない。具体的に言えば「毎日やる」とか決めてしまう人だ。これだけ日々の暮らしの中でやることが多い中で、新しく何かを始めたばかりの人が「毎日」なんてできるはずがないと思う。もちろん、1週間、1ヶ月、3ヶ月と短期間であればそれは可能かもしれない。でも、自分自身を変えて高めていくための行動というものは、短期決戦ではなく長期戦である。地味なことを長期にわたって積み重ねるしかない。

この画像が僕のこの1週間のサマリだけれど、瞑想をやれていない日もある。けれど、亀の歩のようにゆっくりであるけれど、じっくり着実に確実にその効果は自分のものにできていると思う。毎日なんてやる必要はないのだ。

一時的に何かをやることなんて、誰にでもできる。誰にでもできることなんてつまんないな、と僕なんかは思ってしまう。自分を変えたいと思うのならそんな誰にでもできる「楽」な道を選ぶのではなく、むしろちょっと「きつい」くらいの方が「楽しい」じゃないか、と思うのだ。タイパ、コスパなんて言葉が流行っているけれど、効率性の追求だけで人生に深みが出るのとは思えないし、そんな人生が楽しいとは思えない。

「継続するための方法」なんてない。手段のための手段なんて存在しないのだ。瞑想もパーソナルトレーニングもあくまで「手段」であって「目的」ではない。あくまで目指す場所があってこそだ。だから「継続できない」ことを嘆く前に、自分の人生にとって「何が大切なのか?」「どこを目指したいのか?」をしっかり考えることが大切だと思うし、僕自身もそこを一番たいせつにしている。だからこそ、日々の朝のルーティンを大切にしている。

やっぱり大切なのは、どこを目指したいのか?というヴィジョンがすべてなのだとここのところ改めて認識してる。日々に忙殺されるとどうしてもこのことを忘れてしまうから、気づいた時には改めて心に刻み込みたいと思う。「忙」とは心を亡くす、と書くけれど、やはり言い得て妙だなぁと思う。

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