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同じ想いを持つグループのほうが安心なのに、なぜ私たちは”多様性”に惹かれるのか

11月に参加した「多様性が拓くみらいを考える」の合宿から2ヶ月。

ここまで強く安心を求める私たちなのに、なぜ今”多様性”に惹かれるのか。

価値観がちがう他者と同じ空間で同じ時間を過ごせるのか。
世代が違う他者と同じ目線で話すことができるのか。

それまでの同質の関係性の枠組み、家族や職場、学校クラス、友達、仲間の枠から飛び出したいのか。

自由からの逃走があれば、同質性単一性からの逃走もあるのか。

これまでの安心できる関係性の枠が崩れてきた社会。

家族でも信じられない。
同じクラス、同じ職場の人だからこそ息苦しい。
自分たちは誰と手を繋げば安心できるのか。
甘えられる恋人?
気軽に話せる友達?

それはきっと、点でしか人と向き合えなかったことへの反発。

今目の前にいる人は、
「男」なのか「女」なのか
「若者」なのか「高齢者」なのか
「障害者」なのか「低所得者」なのか
なんの「職業」をしている人なのか

でも人はそんな一言でくくられも表されもできない。
キャラクターみたく筋が通っているわけでなく、時間によって変容する。

もっと立体的で多面的で複雑で。

ひと一人の中にある多様性。
でも一人ではその多様性は観測できず、他者との関係性によって個性やその人っぽさが表れて、違うコミュニティーに移動すればまたその姿も変わる。

多様性がどうしたら私たちに安心をもらたしてくれるのか。

居場所をつくることなのか。
つながりを大事にすることなのか。

ここにきて「対話」がもつ効能や魅力や魔力や影響や副作用がみえてくる。

丁寧なコミュニケーション。
丁寧な言葉選び。
丁寧な話し方、聞き方。
丁寧なテンポ、
言葉以外の表現方法。

1対1でがっつり話すことではなく、丁寧なやり取りに対話のエッセンスが積み込まれてるのではないかと今の自分は感じる。

動物との対話。
絵との対話。
自然との対話。
音楽との対話。

立体的に複雑に感じ、言葉や気持ちを返す。

説得でも議論、伝承でもなく。

もちろん「だからこそ対話って大事だよね」というのを確認したいわけではなく。。。

自分の”話し方”や人の”見方”の癖に気づき、”気持ち”に触れ、コミュニケーションの幅やバリエーションを広げたい。

京都に来てもうすぐ5年目。もっと楽しい活動づくりをしたい・・・。 がんばります!