見出し画像

小さな救命ボートで漕ぎ出す/私たちはどこからきてどこへゆくのか

高校まで含め、管理統制と課題づけがエリア全体で進んでいます。

行事やイベント、決め事などで、子どもたちに何かしらアンケートをとっても、先生が指示して勝手に決めるというような(子どもたちは当たり前のことがなされないので、さすがにそんな無意味なアンケートに違和感しかありません)中学校も先生もここではフツーです。


学習における指示命令、書き写すことや作業の課題は中学がピークかと思っていましたが、ここでは進学校(高校)ですら、言葉をなぞる宿題が出るレベルなので、危機感しかありません。偏差値も点数も本質的な賢さとは別物です。


部活もこの状況を後押しするような強制具合を発揮します。
過度なところは今やプロのチームのようなスケジュール。
学校とは何をするところであったか、とうに忘れ去られたかのようです。


また、問題があって先生職から追われた方や部活でリコールされた先生など、公になっていないことも多くあります。
教育では公にされないことが多いですから、一般の方が考えるよりも自体は深刻です。


主体性と思考力を失わせること。


そしてそれはやらないよりはまし、ではなくて、やると弊害になる、という次元まで進んできました。

そもそもそれぞれのまちには元々引き継がれてきた特性があります。
地理的状況、産業構造、街の歴史と文化、そしてそこから自ずと導かれる教育熱、これがまちごとに異なります。

現段階で、教育格差のひとつを生み出す要因のひとつに挙げられるのは「両親が大卒かどうか(年収に関わらす)」。
文化資本の差が、各家庭の教育指針にも及びます。

第二次産業により発展したこのまちは、大卒率は全国のボトムです(データによる)。産業は存在するにしろ、研究機関、大学が発展しなかったことで、教育は後回しになりがち、教育熱はこうした要因から、全国的に見ても低い地域であることがわかってきます。


翻って。


未来から逆算するとき、


主体性を持ち(主体性)、
自ら思考し(思考力)、
自分の意思で物事を選び決定する(自己決定力)、

それらの力を養う必要があるというのが、ひとつの見立てです。


管理統制、指示命令、さらに課題漬け。
過度な部活問題もこれにとどめを刺すようにセットになっています。

僕のところで学んでくれる子たちは、高校生くらいになると、この辺りを実感とと共に理解してくれるようになります。(中学段階では、彼ら彼女らの世界が閉じすぎていて少し難しい/勘の鋭い子も中にはいる)。もちろん僕らが直接そうした話をするわけではありません。
管理統制されて、思考することもなくなり、その危機感を肌で感じるのです。
俯瞰の具合はすでにまずい大人たちを超えたものになる。
先生たちはそんな指導をして大丈夫なのかと。それを自分たちで感じ取る。


ここのところは、一緒にやってもらっている坪郷・山口両博士とも、これらの問題への危機感がさらに増したために、随時話をしています。

システム自体は、すでに機能しないが、存続だけはしていることを考えると、このまま、大量の主体性を失ったヒトを量産し続けることが予測されます。


私たちは、
「システムに依存し、隷属するだけの側の幸福を追求していきるか」、

それとも、

「自らの自由と人権を死守しつつ、主体的でかつクリエイトする側を生きるか」、

いずれの幸せを生きるのかを、選択しなければならないのだと感じています。


すでに僕らは僕らの出せる「小さな救命ボート」で、そこに乗りたいと思う方だけを救うこと程度のことしかできないという現実を噛み締めています。
救うというより共に進むという方が近いです。
わずかばかりの、スクールに通ってくれる子たちとその親御さんと共に。

このボードは残念ながら、小さすぎてマイノリティーへと追いやられる。
それでもなお進まなければなりません。


目の前のできることに集中する。
たとえそれがわずかばかりのことでも。
無自覚で無関心な人達が増えすぎたために、スケールを追うことはすでに難しい。 

僕らの言う、目の前のことに集中するとはそういうことです。


みんながそうするから、
普通はそうだから、
今までそうして来たから、
そんな言葉群はこのボートには存在しません。

だから僕らはわずかばかりの小さなボートをただ黙々と漕ぎます。


それはたぶん、
トマス・モアの言うところのユートピアには向かわないし、
待っているのはビッグ・ブラザーが声高らかに導いてくれる世界ではありますまい。


『すばらしい新世界』でハクスリーが予言した世界が到来するのかもしれないのだけれども、僕らのボートは力はないが、敢えてそれに抗いたい。
 


私たちは一体どこから来たのか、そして今これから、どこへゆくのか、どこへゆこうとするのか。

わたしはまたこれから、漕いでゆこうと思う。
ただしたたかにその櫂を漕ごうと思うのです。


(おわり/FB投稿より)




記事を気に入っていただけると幸いです。NPOまなびデザンラボの活動の支援に活用させていただきます。不登校および発達障害支援、学習支援など、教育を通じたまちづくりを行っています。