合格の裏側に/なぜ合格実績を喧伝しないのか?
僕の長年、大事にしていることは、
進学実績そのものを誇らないということだ。
これは県下最大級まで教室を展開した際にも守り続けてきた。
よくある、〇〇高校、〇〇名合格、といったようなもの。これを掲示・喧伝したことは一度もない。
一般にわかりやすい形で、学校名を誇り、人数を誇る、そうしたことをせずに展開し結果を出してきたことは、業界でも例を見ないはずで、不思議がられるかもしれない。
特に昨今は、内申点の比率の上がった入試、チャレンジの意欲に欠けた入試、など、様相は変わっているし、ことさら、学校名や人数、ましてや全員合格のようなものを誇ること自体が、愚の骨頂なのである。
ただし、民間塾は、その提供するものは教育ではなく、学習技術の提供であり、あくまでも資本主義における営利企業であることから、利益を上げるための手立てとしては、認められる範囲であることは確認しておく。
(僕はあくまでもNPOとして事業を行っている)
学校名がほとんど無効化した今、
重要なことは、偏差値に固執した「学歴」ではなく、「学習歴」(何を学び、何を習得したか)である。
それがわかれば、学校名など何の意味も持たない。
そしてもうひとつ。
実績を、先に述べた形で宣伝に利用しないのには、元来、別の理由がある。
それは「合格する子もいれば、合格しない子もいるという現実がある」から。
合格を誇ることの裏側には、いつも合格できなかった子たちの存在がある。
試験は水物とよく言われる通り、まさか、は起こりうる。努力が、合格という表面的な形で報われないこともよくあることだ。
僕が誰かの合格を誇る。
しかし、それは他の誰かの悲しみを無視したものになる。
僕が〇〇高校〇〇名合格の張り紙を教室に張り出したとする、もしくは、広告に派手に主張したとする。
その裏側にはいつも涙を流した子がいるはずで、果たして僕はそのことに耐えうるだろうかと考える。
いつもそのことを考えている。
たとえそれに耐えられたとしても、すべきではないと、僕は思っている。
それはもはや、主義主張、思想のようなものだ。
自分の主義として、これらを一切やらないと決めてこれまでやってきた。
物事にはいつも両面がある。
僕のところに来た生徒全員が合格をしたとする。
それなら、全員合格を大々的に貼り出せるだろうか?喧伝するだろうか?
否。
同じ試験を受けた子どもたちがいる。僕はその子たちを知らないが、その子たちの中にも残念な結果に涙した子がいる。
“僕の生徒ではないから残念でしたね”と、切って捨てるような言葉を口にはできない。(僕と直接付き合ってくれている生徒たちはそのスタンスを普段から知ってくれていると思う)
だから僕は、大々的に貼り出さないことを選び続けている。
15年余りにわたって山ほど出してきた広告にも、書いたことがない。
僕にできることは、
そうした合格実績的なところは、報告程度に留めること。それだけだ。
子どもたち一人一人が、その子なりの成長をし、その子なりの今のベストに向かってくれること。
大人の期待通りになどいかないこと。
大人の言うことなどたいしてきかないこと(たまには聞いてね)。
それで僕は十分だと思っている。
物事にはいつも両面が含まれている。
(おわり)
記事を気に入っていただけると幸いです。NPOまなびデザンラボの活動の支援に活用させていただきます。不登校および発達障害支援、学習支援など、教育を通じたまちづくりを行っています。