【教育と消費はなぜ別物なのか】「学校について考えよう その1」
なぜ消費が教育と相反するものなのか。
重要な内容なので、自身の教育連載記事より転載します。
(再掲)
以下、長いですが、簡単にまとめたものです、参考までに。
なお、記事は、かなり前(2012年)ですが消費と学びについての記述したものです。
勉強が未来を創る 第9回
「学校について考えよう 1」
私たちの社会において「学び」を考えるとき、学校の存在を欠かすわけにはいきません。
今回は学校に関する少し小難しい話をしてみたいと思います。
学校は私たち国民がその必要性を感ずる中で成立した機関のひとつでしょう。
「そんなもの勝手に国が作ったんだから知らないよ」という方もいらっしゃるかもしれません。
ですが、私たち一人一人が国家の成立と安定を考えるとき、教育が国を良くも悪くもすると自然に想像するでしょうから、学校必要論に行き着くのは不可避であるといえます。
必要であるからこそ存在する学校は今、大きな転換期を迎えています。
ご存知の通り、学校は全国どこを見渡しても、絶対的な信頼や支持のもとで運営されているところは皆無ともいえます。
私はまさに今、教育の現場にいるのですが、課題は山積みです。
多数ある課題の中でも、学校(および先生)と保護者の方々との信頼関係と呼べるものが存在していないというのが昨今言われている一般的な見方でしょう。
様々な課題を抱える教育の現場ですが、問題点のひとつに「先生がえらくなくなった」ということがあります。
私自身の幼いころの記憶をたどれば、間違いなく「学校の先生」=「偉い」という漠然とした思いがあったように思います。
先生に対するある種の絶対的尊厳がそこにはあったように思うのです。それが子どもたちの学びを先導していた。
ではなぜ近年、学びの先導者であるはずの先生がその尊厳を失っているのでしょうか?
そこには、「学び」を「消費活動」の一環として見てしまっているという過ちがあります。
学校に子を通わせる親の側が、学びの本質を知ることなく、学びの本来的活動を、消費活動のそれと混同してしまっているのです。
消費とはその名の通り、「代価を支払って、ある商品を買おうとする」行為です。学びは消費活動とは似て否なるもの。
ですが、消費の概念を学校にも適用させてしまっているのです。
では、学びを消費として完結させようという行為がなぜ悲劇を呼ぶのか。
そのあたりの話を次回に。
(つづく)
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