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『見逃されがちな家庭という空間の意義〜オンラインのその向こうへ〜』

【見逃されがちな家庭という空間の意義〜オンラインのその向こうへ〜】

遠隔授業、オンライン授業。
(ここでは、大人ではなく、子どもたちの授業の話)

この状況下においては、いかにも聞こえの良い響きである。

やれるからどんどんやろう、そして、民間であればそれを宣伝や集客に、と、利益が正義であるなら、簡単にうてる策ではある。(ただしその手の皆さんは教育という言葉を使わないでね、と)

けれども、それを用いる側は、今だからこそ「細心の注意を払わなければならない」と考えている。


なぜか?


それは、

ステイホームを前提としたこの状況下でのオンライン授業は、大変強い力で「家庭に乗り入れてしまう」からだ。

ここには細心の注意が必要だ。

民間の教育関連は元来デリカシーに欠けるきらいがあるから、なおさらだ。公であってもこのあたりは、権限と管理統制力の強さゆえ、危うさを含んでいる。

当たり前だが、家というのは大変プライベートな空間である。そして、最も安心し、居心地のよい、安らげる場であることが望まれる場所。

いわば、公と私。
家以外の場所が「公」(パブリック)だとすれば、「私」(プライベート)の空間である家庭、それぞれの家は、唯一の「私」、プライベートな空間なのである。


今が致し方ない状況下だとは言え、オンライン(遠隔)授業をもって、プライベートな空間に踏み入ることには、慎重になり過ぎるくらいの心持ちでなければなるまい。

特に、義務教育課程(小中)の子どもたちは、自分の意志で外出したり、移動したりできないから、こちらとしても、よりセンシティブになる。

ここのところのzoomを中心とした遠隔授業やテレカンの流れをみると、プライベートの空間にお気軽に入って、相手の安らげる場を奪ってしまうことに、少し無頓着になってしまっているのではなかろうかと危惧している。


この点では、先日記事にした「繊細な」先生であれば、ケアされているのだろうとも思う。
(参照「先生という仕事は、繊細な人の方が向く、というお話」https://note.com/masterhonda/n/na7ef23b9cd84)

やれるから、得するから、勉強が進められるから、と押し付ける側の論理をもって、土足で誰かの家に入り込んでしまう強引さを、僕はデリカシーのなさだと感じてしまう。

やれるからやればいい、どんどんやる、の、デメリットにも目を向けていたい。

もちろんこの点においては、大人のテレワークも、やはり同様に、便利だからすべてOKと、安易に考えるのは危険を伴うのだとも言える。


まだまだ我々の世界は進化しうると期待しながら、そんなことを考えている。


(おわり)



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