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誰がそのペダルを漕ぐべきなのか?/教育の大惨事をお伝えします

公教育において、管理指示命令統制が強まっている地域があります。

これは先生という職につく人が、お節介、そもそも他人の面倒を見るのが好き、というような性質の人が多いことも原因の一つです。
要は、教えたがり、は、手をかけたがり、なんですね。


もちろん、要因は一つではありません。

保護者がそれを望むというのもあります。手をかけて欲しい、面倒をみて欲しいというニーズです。
典型は、宿題を出してくれないと子どもが勉強しないので、学校に要求する、というのがあります。

いわゆる、過保護という言葉が当てはまるでしょう。


さらにもう一つ。これも大きいのですが、消費を中心とした社会の進化です。

日本は経済立国として、70年代以降、バブルが弾けるまで、急激な成長を遂げました。経済の中心的な行動は消費です。
進化と書くのは、それが昨今さらに、個々にカスタマイズされた商品やサービスが急増し、ますます便利になったから。
一人ひとりにカスタマイズされたサービスは、従来のそれと比べれば、至れり尽くせり、まさに過保護であるとも言えますよね。

私たちは今やそれらに慣れて、随分と久しいわけです。

こうした様々な要因から、私たちは、より便利で、過保護で当たり前、という感覚を持つに至りました。


そうなってくると、先生も親も、無自覚のうちに過保護さが増してくることになります。


ところが、です。


これは教育である、という事実を考えるとき、過保護や管理一辺倒ではまずいことがわかります。

教育は、消費とは全く別の行為だからです。

むしろ、その性格は正反対であると言っていいでしょう。
(これについての詳細はここでは省きます/他の記事をご参照あれ)


公教育で起こっている大惨事を発表しておきましょう。


学校や先生に手厚さだけを求め、管理や強制すら支持してしまっている親御さんに知ってもらいたい大惨事です。


それは、「自立しない」子が量産されているという事実です。

これは大惨事でしょう?


少なくとも、若者世代以降、今の小中高校生がどんどん歳をとり、社会の中核を担う時、
社会を自立していない大人だけで存立させうるのか?
これを考えると、目眩すらしてしまいます。


今、教育現場で教育らしからぬことが起こっている。


それを知っていただくために、喩え話をします。


自転車の補助輪を考えてみましょう。ご存知ですよね?

小さい子が2輪である自転車を最初から上手に操るのは難しい。
だからついている補助輪。

補助輪をつけて慣れてくると、やがて、親は補助輪を外します。
いきなり外すのも大変なので、少しばかり、後ろで直接支えてあげる。

そして、どこかで手を離す。
子どもはすっと走るんだけれど、少し進んでこける。
「お母さん、なんで手離したの?」って怒られる。

みなさん経験があるのではないのかと思います。


補助輪って、何のためにあるのでしょうか?

当然、いつの日か、自転車を一人で走らせられるように、それを手助けするためにあるわけです。

そう、教育で言えば、自立ですよね。

補助輪は自立のためにある。


ところが、今、学校が管理統制指示命令を強めることで、何が起こっているのか?
何が起こってしまっているのか?


それは自立しない子の量産です。


何事も、最初から、全てを完全にこなすことはできません。
練習も必要ですし、失敗もたくさんする。
特に、学びの初期段階は、周囲からの援助や支援の行動は多くなります。

あなたが部下をお持ちならお分かりでしょう。新入社社員には、支援・援助行動が多くなる、慣れてくると、それが減る。
当然のことです。なぜなら、自立してもらわないとあなたも会社も困るから。


ところが今起こっていることは、これと真逆なのです。


まずは、子どもの自転車に補助輪をつける。

しかし、うまくいかないからと言って、先生が直接ハンドルを握る。
簡単にはうまくいかない。

それで親からも「うちの子に怪我させないで」とか「すぐ乗れるようにして」とか言われてしまうから、さらにサドルにまで座る。

いよいよ、どうにもならないので、最後は、先生がペダルを漕ぐ。


今、教育で起こっていることがこれなのです。

さらにまずいことに、それで我が子が自転車を運転できているように錯覚した親が喜んでさえいる。

子どもたちは、従うことしかできません。
素直な子たちの中には、それで自転車が乗れるようになったと信じてしまう子もいます。


一体、子どもたちは何を学んだのか。何を学べたのか。


ところが時間はいつも残酷です。
どこかで夕刻のチャイムがなります。

それは大学に入った時か、社会人になった時か、人それぞれですが、
突然、補助輪は失われ、ペダルを漕いでいた先生は、いなくなります。

果たして、その子は、自分で自転車を漕ぎ続けることができるでしょうか?

教育は、今、その姿を失いつつあります。

消費行動はいつもその対極にあります。


私たちは、本当にこのまま、子どものためという大義名分のものでハンドルを握ってしまう大人の行為を許してもよいのでしょうか。


自分で子のペダルを漕いでしまう先生の行為を、親も子も楽だからと言って、受け入れてよいのでしょうか。


自分でハンドル操作ができないから、やってあげる。
ペダルを漕げないから、漕いであげる。

自立した大人とはどんな大人でしょうか。

教育は、本人の自立を支えるものではなかったのか。

安易に、管理統制を強める学校や先生の責任は重いでしょう。

安易に、過保護なサービスを求める我々保護者の側にも責任はあります。


地域性が強いお話になるとは思いますが、今起こっていることは、教育がなぜか自立に向かわない大惨事であることを、お伝えしておこうと思います。

(おわり)


子どもたちの自立と成長のために。



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