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法についての考え

久しぶりに会った友人が司法試験を受けたと言っていた。そして今は弁護士事務所を中心に就活をしている。弁護士事務所の就活は、司法試験の合否が出る前に進められるらしい。多くの場合は、資格や免許を取った上で就活が行われると思うので一般的な形と違って珍しい。

だが、それを言えば一般的な4年生大学生の就活も同じだ。卒業できるかは確定していないが、卒業見込みということで就活や内定出しが進む。そう考えると、取り立ててレアな形では無いのかもしれないとも思えてくる。

しかし、司法試験の合否と一般的な大学の卒業とではその難易度がまったく違うわけで、実際は同じでは無いとも言える。大学はだいたい普通にやっていれば誰でも卒業できるが、司法試験は合格率がだいたい30~40%なので受からない人の方が多い。合格しているかわからない不安を抱えながらの就活は大変だろうなと思う。


私自身は司法や法律に興味が無いわけではないが、まったくのど素人で、うまく吞み見込めない学問でもある。法律とは難解で厄介なモノ、そういうイメージを私は抱いている気がする。

「法」と聞くと、大学1年生の時の苦い記憶を思い出す。大学1年生の春学期、入学したての1発目の講義選択で私は「法社会学」という講義をとった。理由は単純で法学部の友人と一緒の授業を取りたかったからである。

講義は法学部の開講であったが、講義の名称に「社会学」の名前も入っているということから、社会学部の自分でも大丈夫だろう、と疑うこともなく履修した。というか、入学したてで右も左もわからない状態だった。

いざ、講義を受講し始めると、そのギャップに驚いた。講義は法社会学の先生がボソボソと難しい単語を駆使して、話すだけのつまらないものだった。内容は「ADR(裁判外紛争解決手続き)」を扱ったものだった。

さらに、「法社会学」とは名ばかりで、実質はほとんど法学の講義であった。それはカニカマに蟹が入っていないように、法社会学には社会学部で受ける講義のような「社会学」は感じられなかったのである。

それでも適当に講義には出て、ウトウトして、たまに教科書を読んで、学期末テストになった。当日に答案用紙が配られて驚いた。ただ、紙が1枚配られて「ADRと〇〇について論ぜよ」とだけ冷たく書かれていた。これが大学のテストなのかとビックリした。高校や大学受験までは論じるテストなど、無いに等しいからだ。さらに、所属する社会学部のテストは択一式が多くあったため、その毛並みの違いに驚いた。まったく分からない。

そして、私は人生で初めての大学のテストで「法社会学」の単位を落とすことになった。大学へ入る前はまさか自分が単位を落とすなんて、と思っていたが単位というものは意外にもあっさりと落ちた。正直ナメていた。


その苦い記憶は確かにあるものの、それだけで法律が気に食わない訳ではない。法律のど素人の戯言ではあるが、誰かの作ったルールにああだこうだ論議し、誰かの作ったルールをいかなる時もうまく当てはめようとする性質にどうも馴染めないのである。

例えば、憲法九条はこうも解釈できるし、ああも解釈できると政治家や憲法学者はいつも言うが、結局が堂々巡りでカチッとした結論や万人が納得できる答えには行きつかない。解釈次第で何とでも言えるという現実がそこにはある。解釈によって変わってしまうのなら、そもそも憲法として意味をなさないのではないか。好きな時に好きなようにねじ曲げられるようなものが、国を縛っているのかと思ってしまう。

確かに何事も解釈によっては見方が変わる。実は本能寺では織田信長は死んでいなかったとか、STAP細胞はあるとかないとかも人によって解釈によって答えが変わる。ただし、例に挙げたそれらは事実が確定しているわけであって、その事実や物事は誰かの発案や恣意性によって生み出されたものではない。そこを解釈を通じて、真理を目指すと言うのなら分かる。

だが、法律や憲法はそもそもが誰か偉い人が作ったるルールな訳であって、その作った人の正義や感性に基づいて作られている。それがたまたま大多数の人の思惑と一致したり、可決されたりということに支えられ、正当とされているだけであって。そのルール自体の完全生を担保するものではない。

それはそのはずで、神ではない誰かが作っている以上、完全なモノではない。それに対してああだこうだ言ったり、考えたりしたとしても、結局は堂々巡りをして、その有限性の中に終末するだけなのではないかと思ってしまう。誰かが作ったモノである時点で、その脆弱性や不完全さについて議論が勃発するのは至極当たり前のことなのである。なので、私に法学や法律は合わない。

とは言っても、身の回りの多くのことが法律や憲法によって支えられ、守られていることも事実だ。人の行為を犯罪だと規定するのは紛れもなく、関係する法律であり、それが場合によっては抑止力になっていることは十分に考えられる。

道を歩いていて、引ったくりに合うことがまずないのは、日本の治安の良さや性善説という事情もあれど、やはり法がそれを犯罪と規定するからであり、「法に触れることはしたくない」「法に触れることはしてはいけない」という意識が存在するからだ。

このように法は我々の生活の身近に存在し、我々の知らないところでも幅を利かせている。それなのに多くの人は、私を含めて、法についてよく知らない。電子レンジをいつも使うけれども、なぜそれが温まるのかについてはよく知らないということに似ている気がする。

所詮は誰かの作った文言であるが、実際の世界では法は絶大な力を持つ。そんな近くて遠い存在であり、いかにもとっつきにくそうな雰囲気を醸し出しているが、他人と共存する中で生きるには知らないでは済まされない。個人的に法はあまり好きではないが、その大切さだけはひしひしと感じる。法を学ぶことには、実際には、想像以上の意味があるのかもしれない。

誰かが作ったルール





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