コール音に感じる「自由」
「自由」とは何であろうか。多くの人は「自由」ついて考え、「自由」を求めるが、人によってその捉え方も解釈も感じる瞬間も違う。何かが無くなったとき、何かから解放された時、何かを得た時など自由が感じられる場面は様々あると思われる。
さて、わたしが考える「自由」とは何であろうか。何を「自由」だと思うのか。それを考えよう。
自宅のある地域はそんなにガラのいいエリアではない。そしてかなり近くに高速道路がある。このような条件が重なり、バイクを乗りまわす輩が多い。
かつては「暴走族」という形があったが、近年ではそういった姿は見かけない。最近は集団ではなく数人で走り、少しブンブンと控えめな音を鳴らす輩が多い。
わたしは平日遅くとも12時には寝ると決めている。そして12時に寝ようとすると、そんな輩たちのバイクの音がどこからか聞こえる時があるのだ。だが、わたしは「うるさい」という感想よりも「自由だなぁ」といつも感じる。迷惑なはずの音に羨ましさすら感じてしまう。これからはわたしが組織人として感じているのは「不自由」だということがわかる。
わたしが12時に寝ると決めているのは、それは仕事が翌日の9時に始まるからだ。身支度や通勤を考えると7時くらいには起きないといけない。わたしの場合最低7時間くらいは寝なければ調子が出ない。よってその逆算によって12時の就寝という独自ルールを設けているのだ。
組織のルールや社会の眼差しがあるので、わたしは9時までに職場に着き、終業まで集中して業務に取り組まねばならない。そう決められているから、わたしは12時に寝なければならない。
そこには、好きにバイクを乗りまわす輩と12時に眠りにつかなければならない自分という対比構造が現れる。そこに寂しさを感じる。バイクの輩は自由を謳歌して深夜にツーリングしているにも関わらず、わたしは組織や社会に縛られて無理矢理にでも寝ることを強いられる。
もちろん暴走行為を肯定するものではないし、輩たちも日中は働いたり、学生であったり、次の日が休みなだけなのかもしれない。わたしが寝る瞬間にバイクを走らせているからと言って、必ずしも自由な生活を送っているとは限らない。
だが、彼ら彼女らの深夜ツーリング行為が、わたしの組織や社会に縛られた不自由さを炙り出すということは紛れもない事実なのである。そのコール音を聞くことによってわたしは自分の環境を再確認し、「自由」に対する憧れを膨らませるのである。最近それに気づいたのだ。
「自由」とは何か。一言でそう問われると難しいが、組織人のわたしからすれば「時間に能動的である」ことは1つの自由だと言える。何をするにも時間が決められているわけではなく、自分のスケジュールで動くことができるというのは自由であろう。
例えば、朝に満員電車に乗らなければいけないのは「自由」特に「時間的自由」を持ち合わせていないからだ。会社の社則や労働に関する法律には「満員電車で通勤せねばならない」という決まりはない。ある方がおかしい。
だが、それでも多くの人が満員だとわかっているにも関わらず満員電車に毎朝飛び込んでいく。これは会社や仕事の時間が誰かに決まられているからだ。「時間的自由」を与えられていないので、そうせざるを得ないのである。
「自由」とは壮大なように見えて、案外ちっぽけなことんなのかもしれない。自由は身の周りにこそあるのかもしれない。だが、そんな小さな自由すら手に入れられないまま、多くの人は死んでいくのだそうだ。
真夜中のコール音をどう思う?
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