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わからないことを「わからない」と言う勇気

たとえば仕事でわからないことがあった時
「私はわかりません」と言うのに、大きな勇気が必要な場面がある。

知らなければ知らないでいい、というスタンスで来た質問であればいいのだけれど

基本は知っているのが前提で、“もう一段階上の質問”が来た時など。

この時に「わからない」ということを正直に話すことで
一時的に気まずくなっても
結局は自分の首を絞めずに済むような気がしている。


3年生の「わからない」


中学生の頃。

学力の差がある2人でペアを組み
同じ問題を解く。

その後、間違えたところ、わからなかったところを教え合い、
互いに学力向上を目指す、というものがあった。

…確か、「スクラム学習」とか呼んでいた気がする。


これが1年生だったらまだ良かったのかもしれないけれど
受験の迫った“3年生”の時に、その時間があった。

3年で習ったところがわからないのは仕方ないとして
1、2年生で習ったところを聞くことが、私は少し恥ずかしかった。

しかし聞かなければわからないままで、次の応用問題に行けない。

…結局「テヘヘ」などと言って誤魔化しながら
「何もわからないからイチから教えてほしい」と言ったような気がする。

先生に聞こうものなら「1年生で習うところだぞ!」と怒られそうな気がしていたので、同じクラスのメンバーとの学習は少し救われた。


この時に初めて

“ここで恥をかいてでも、わからないことを解消する”か

“知らないまま進んで、後でもっとわからなくなって苦しむ”か。

ということで悩んだような気がする。


しかしこのような場面は、実際は一度ではなくて
他のところでわからないことを誰にも聞けないまま、後で1人で必死になったり、苦手意識を持ってしまったり…色々な弊害が出てしまったように思う。


知っているフリの弊害


勉強だけでなく、仕事もそうだ。

仕事だけでなく、日頃の会話でもそうかもしれない。


一度「知っているフリ」をしてしまうと
そのまま、“知っていること前提”で話が進んでしまったり
忘れた頃に「アレ」などと言って“省略されて”会話に盛り込まれてしまうこともある。


私はこれまで、「わからない」と言えないことが何度もあった。
雰囲気的に言いづらい、とか
圧力がすごくて聞きづらい、とか。

しかし結果、苦しんだのは自分だった。


その時は少し嫌な思いをしても
「自分が知らない」ということを周りの人に知ってもらうことができる

改めて、丁寧に説明してくれたらラッキーだ。

そう思うようにしている。


だって、わからないんだもの。
これから覚えればいい。

…そんなスタンス。

まさに
“聞くは一時の恥、聞かぬは一生の恥”だ。


そのせいか、ハーブ専門店にいた頃。
先輩が教えてくれる新しい知識にいちいち感動していたら

「地球一年目」という称号をいただいた。

こうなると、質問はしやすくなる。
ほんの少し、情けないけれど。


時々ヘラヘラ生きる


「そんなこともわからないのか」
と言われたら
「すみません、わからないんです。教えてください。」

「自分で調べておきなさい」
と言われたら
「わかりました、すぐに調べておきます!」

言われた言葉をあまり気にせずに、
少しヘラヘラしながら、生きるようにしている。

一応、ヘラヘラする相手は選びつつ。


新生活が始まる季節。
私は仕事が変わったり、環境が変わったりすると

「わからないこと」を「わからない」と正直に伝えること

「わからないこと」を“そのままにしない”こと

を心がけている。


わからないことは、恥ずかしいことではない。
ちゃんと学べる、いい機会だ。


新生活であたふたしていた自分と
中学生の頃をふと思い出した、春の日。




2024.4.2

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