見出し画像

ダヴィンチな人生。

優越感や劣等感は限りあるリソースの場合にのみ成り立つ。

優越感を感じる人も、劣等感を感じる人も、
人生には正解があってそれを取り合っているにすぎない。

本当に人生とは限りあるリソースなのか。
誰かに取られた場合、減っていくものなのか。

一流大学の切符、
一流企業の切符、
その切符を取れなかったら、
私の人生は誰かに取られてしまうのか。


そんなわけないだろう。

***

時間は公平という考えがある。
これもよく使う方の言葉を聞いていると、
解釈が歪んでいるように思えてくる。


例えるならそれは人生80年という時間を全人口で取り合っている感覚だ。

もう少し噛み砕くと、人生80年で稼ぐであろうお金を取り合っていると言って差し支えないだろう。

切符を手に入れなければあなたの取り分が減る。
ということだ。

だから、
早くしなければならないし、
先を越さなければならないし、
出し抜かなくてはならない。

休むと遅れを感じるし、
時間を無駄にしたと感じるし、
罪悪感を感じることもある。

人生というものは時間なのか?
いつから量の問題になったのだ。

目を覚ませ。


人生はアートだ。

1日生きることですでに完成されているのだ。
翌日も生きればアップデートされているのだ。
完璧な完成もなければ、未完成もない。

10年の人生でも、
100年の人生でも、
成功しても、しなくても
立派だろうと、クズだろうと、
それ自体が一つの作品なのだ。

しかし、今はどうだ。
自分で作ることを放棄しているのではないか。

例えるなら、有名な芸術家の絵画を買おうとしているようだ。

誰よりも高い金を払って我が物にしようと、
取り合っているように見えてしかたない。

ダヴィンチな人生を買おうとしているのだ。

だから、80年の稼ぎを取り合わなければならくなる。

教えてほしい。
それは一体どこで買えるのだ。
いくらで買えるのだ。

私の魂が喜ぶ人生はどこに売っているのだ。


そんなものあるわけない。
あってたまるか。

完成形がないから人生なのだ。
完璧な人生を目指しているとしたら、
それはきっと過去の誰かの模造品だろう。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?