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オランダ人男性のマインドから、ワーママの閉塞感について考えたこと

昨日から、ずっとイライラしっぱなし、どうも不安定でなかなか浮上出来ないまま、何とか切り替えたくて、noteの記事を読む。

(それも、朝の忙しい時間、娘と夫の目を逃れるように、5分だけ…と自分に言い聞かせつつ、トイレに駆け込んで笑)


オランダは、大学の卒業旅行でバックパッカーとして行った国。私の海外初経験の国で、人が大きく、おおらかで、とても印象の良かったことを覚えている…あとは司馬遼太郎さんのエッセイで読んだくらいで、格別の知識があるわけではなかったのけれど。

三島さんの記事を読んで、子育てがはじまってから、ますます強まっていた違和感が言語化され、少しだけカタルシスを得たような感覚を得る。

そもそも私は、日本以外の国の、生活や仕事や文化や社会背景、それに関しての常識や不文律などはよく知らないし、経験したこともないのだけれど、純粋に、記事内のオランダ人男性が日本旅行で経験し感じ、言葉にした印象や意見については、全くと言ってよい程共感するし、的を射ている、と思った。

何ならそれが、私が家族で一度は他の文化の中で「生活」(旅行、ではなく)してみたい、と思う理由の1つでもある。


誰かの不便や犠牲、滅私の精神に支えられ、成立しているこの社会の便利さや快適さ。

少し前までは、私もおそらく無自覚にそれを享受していた。

しかし、娘が生まれ、それまでの「都市型」(養老孟子さんの言うところの「脳化社会」)生活に、自然が入りこんできた。

自然=こども、である。

私自身、妊娠期から、自分の中で大きくなる生命を最優先したし、自分が「生命体=自然の一部である」ということを自覚した。

自分から新たな命が生まれるということや、出産後の身体的精神的ダメージと回復、母乳を出してそれを子が飲んで育ってゆくことなど…

これ程までに、自分が自然の営みの一部であることを意識したことはなかったし、もっと言えば、私など地球や人類というような、連面と続く長く巨大な織物の織り目のひとつにすぎないのだとも思ったりした。


それが、それが…である。

育休中、言葉を発せず、泣き声や身体的快/不快を基本に生きる娘との人間関係だけでは、「大人」の私は飽きたらなくなってくる。

そうでなくとも育児中に睡眠や休息が不足するのに、本が読みたくなり、外の世界とのつながりを欲するようになる。

元の職場に戻り、不要な人間関係のストレスを持ち帰るようになる。

本来なら、自然に任せて、もっとシンプルに、身体の求めるままに、本能に任せて過ごしても良い時期だったのに、つくづく脳化社会の作法に馴染んでいたのだと、今になってつくづく思う(苦笑)

その職場と言えば、朝早くから夜遅くまで営業する飲食店で、個々の従業員の生活背景には完全に配慮しきれるわけもなく、福利厚生・制度的には充実してると謂えども、誰かには負担がかかり、それが時に「犠牲」となり不公平感が生じ、不衛生な職場環境が生まれる。

消費者は消費者で、コーヒー1杯の値段は変わらないのに、サービスクオリティへの評価の目ははどんどん厳しくなり、時にそれはエスカレートし、過剰な要求やクレームに発展したりする。

一部の消費者には、対価を払えば、労働者をどう扱っても良いと言わんばかりの態度の人もいる…その対価が果たして正当なのかどうかを考えることもないままに。(ともすれば、何かのストレスの捌け口にしているのではないか、という人を何人も見てきた)


それを一介のワーママが、「マネージャー」という役職の名のもとに、安い時給で処理し、受け止め、受け止めきれない部分は、それをやり場のないまま家庭に持ちかえることになる。

社会的には、それをうまく処理しきれず、コントロール出来なかったとすれば、「メンタル不安定」「自己管理が出来ない人」などとレッテルが張られる。

家庭内では、夫に当たったり喧嘩になったり、子どもにはイライラし続けけたり、もっと悪いことには手を上げてしまったり放置してしまったり…

一世代前と違い、今の日本は核家族が増えていて、家に大人が何人いるのか、その人たちがどんな職業についていて、どのような雇用形態なのかで、子育ての事情もだいぶ変わってくるし、大人1人にかかってくる「負担」感や「自己犠牲」の感覚もだいぶ違うはずだと思うのだが…

日本は「差別」をなくそうとするあまり、もっと細やかに、丁寧に違いを見たり、「区分」することに関してはむしろ、大雑把過ぎる気がする。

実際、育休復帰で戻った職場に「ワーママ」は何人もいたけれど、かえって「同じ立場」であるはずの「働いていて、かつ母親という立場である」人たち同士の方が、お互いを見る目が監視的になっていたように感じる。

「私はこれぐらいやって当然だった」「今になって、この人がこれほどまでに優遇されるなんて許せない」「私の時はもっと大変な思いをしていた」「あの人は家におばあちゃんがいる」「あの人は夫が稼ぎがよい、私には夫がいないのに」「あの人はひとり親家庭手当てをもらっている!」などなど…


これは、その時所属していた職場特有の問題であるということでなく、日本社会に普遍的に見られる現象の良い一例だと思う。


生活する上で感じる幸福度の低さや不自由さは、仕事の上でのそれと大きく関係している。

仕事の上で感じるストレスは、仕事の量や質、システムや待遇、福利厚生や物理的な環境要因など、様々なことが考えられるけれど、大別すれば「人間関係」と言えるのではないかと思う。

コミュニケーションの齟齬や比較からくるストレスと言ってしまえば、上記全てを網羅出来てしまう。

そして、そこに日本的慣習や文化的背景が絡んできて、より閉塞感が増しているように思う。

察して動けて(誰かにとって都合が良いということかもしれない)、

大方の人に気に入られて(顔色を伺えるということかもしれない)、

要領よく、バランス良く色んな仕事をこなせて(より「安い」人件費で良いということかもしれない)、

不平不満を言わない(自らの不便を脇に置けたり、より多くの自己犠牲を厭わないということかも知れない)

そんな人が、少なくともこれまでは「良い社会人・職業人・デキる人」だったのかもしれない。

すくなくとも、大人の世界では。


でも、そんなパーフェクトなヒト、存在するんだろうか…?

仕事では「完璧」に振る舞えても、家に帰っても「完璧」で居続けられるのだろうか?

仕事でデキる人、家事も効率よくこなして良妻賢母…そんなこと、可能なんだろうか…?


割烹着を着て、夜なべして、微笑をたたえて子守唄うたいつつその腕に優しくわが子を揺らす…そんなモノクロの映像が脳裏をよぎるよは、何故だろうか?

そろそろ、他人に植えつけられた根拠もない理想像から自由になりたい。

戦後、従順な企業戦士を育成する教育システムに馴染んでしまった価値観や反射を捨て去りたい。


私が「ワーママ」になって、特に意識するようになった、個人的な閉塞感は、おそらく「個人的」なことではない。

生活ー仕事ー社会ー文化ー歴史は全部つながっていて、時に円環状になる。

どれかひとつを変化させよう、断ち切ろうと思っても、容易に出来ることではないと思うようになった。


と、三島さんの記事を読んで、なかなかに長い文章となったが、ここまで書いてきて、だいぶ自分の中に溜まりつつあった澱のようなものが浄化されつつあることに気がつく。


私は空気を読みたくないし、オランダ人のようにもっと自由に生きたいと思っている。

もっと不便で良いし、お金もそんなにたくさんなくて良い(お金は今もそんなにないのだけど…)

ただ、他人に自分の生活の主導権を握られているという感覚が、相当にストレスフルで、時に私の精神を蝕む。

仕事では勿論、時に娘でさえも。


だから私は、週4日という仕事の仕方を死守すべきだし、その分給料は減るのだということは当然、納得しなければならない(日本の、今の職場で働き続ける以上は)

保育園に預けるのは週5日で、本来ならもう1日は自宅保育しなければならないのだろう(世間の目的には)

しかし、わが家は夫が農業をしていてあんまり儲かってはいないし、それを手伝っているわけで。

加えて核家族だから、平日にまとめて家事や所用を足すことを考えれば、現状としては時間もお金もない(日本の世代別平均所得と比較すれば)と言える。


誰と比べるでなく、自分は自分として生きたい。

ある程度のお金以上に、私には自分の時間が必要で、身体的肉体的健康と健全さを保つために不可欠なのである。


早朝、たなびく雲と山際を眺めながら散歩し、橋の上から朝日を浴びて太陽礼拝し、エネルギーをもらう。

ジャーナリングと少しの読書、必要な勉強(たとえ2ページでも、1ページでも)

英語や育児、哲学的主題のYouTubeを聴きつつ、朝の食事をしながら1日のアイドリング。

土曜日は一時間のヨガ教室で、普段忙しくてなかなか会えない友人と、少しの会話を楽しむ。

毎晩、娘と一緒にお風呂に入り、絵本を読んで7時間の睡眠をとる。

健康的に自炊したものを食べ、食べさせる。


これが、私を毎日蘇らせる。

そして、娘との時間が楽しくクリエイティブになり、夫に配慮し、優しい家族関係を保てる。

疲れているときは、週3日目の会社の休みの日の半日を、「すべきこと」から解放された、完全に自分のためだけに充てることが出来る。


周りの目、他の人の事情と比較して、罪悪感を感じないと言えば嘘になる。

けれど、三島さんの記事を読み、そっと優しく、肩に手を置かれたような心持ちになった。


今日は半日、心行くままに文章を書き、コーヒーを飲みながら本を読もう。








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