スガ.

世人/dasmanという集団で脚本と演出をしています。noteには製作記録や日々感じた…

スガ.

世人/dasmanという集団で脚本と演出をしています。noteには製作記録や日々感じたことを著していけたらと思います。

マガジン

  • ガザ・モノローグ2010

    ガザ・モノローグ」とは、パレスチナのヨルダン川西岸にあるアシュタール劇場が企画・制作した演劇です。当時13〜18歳の若者が紡いだ、31のモノローグで構成されています。アラビア語から英語を介しての重訳ですが、一つずつ更新していきます。

  • 「葬送の花嫁」の前日譚

    2021年9月に上演した短編演劇『葬送の花嫁』の前日譚を書いていました。(セルフメディアミックス)全5回のnote小説連載。

  • 仕事?論

    演劇集団「犬を園内に入れないでください」の12月連載で、スガが寄稿したものです。

  • コロナと演劇について

    新型コロナウィルスによって、これからの時代の演劇はどうなっていくのか、実際に手を動かしながら考えていくためのマガジンです。

最近の記事

「ガザ・モノローグ2010」その27

27.ヘバ・ダウドさん 1995年生まれ 避難所 私は5歳の時、ティベリアに行ったことがあります。まるで天国のように美しい町でした……。バスで家に帰ってる途中、誰かが運転手に、エルサレムの道路を走らないように言いました。シャロン(イスラエル元大統領)がアル・アクサモスクに入ったからです。その時、私はティベリアは私たちの土地ではないと思いました。 私は通行省の近くのリマル学校にいます。そこは戦争で最初に空爆があった場所です。すべての省庁がこの学校にやってきました! 女の子は

    • 「ガザ・モノローグ2010」その26

      26.マフムド・ナジェムさん 1994年生まれ アッシュシェイカーラドワン ガザの道が初めてきれいになって、紙きれもダンボールの切れ端もなかった。電気が使えなくなったから、みんながパンを焼くために紙切れを集めたんだ。でもママはパンを焼きたくなかったから、僕にオーブンからパンを運んでくるよう言った。パンのためにオーブンの前に並んだ人の列は、ガザから西岸地区まで伸びた。1パックの半分のパンのために、みんな自分の番が来るまで8時間も待ったんだ。 その時、パレスチナのロケットラン

      • 「ガザ・モノローグ2010」その25

        25.マフムド・アファナさん 1995年生まれ アル・サフツァイ通り 臆病者と呼びたかったら、そう呼んでください。僕は戦争の後、物乞いの子どもたちに対して、時には僕を叩いてくる子たちにたいしても、なにも反応しなくなりました。僕はただ悲しくなり、彼らをその場に残して立ち去ります。戦争の前はこんなんじゃありませんでした。飛ぶ鳥も僕を避けていく。どうしてこんなふうになっちゃったんだろう。たくさんの子どもたちが戦争で死んでいくのを目の当たりにして、人はみんな死にゆくものであり、僕た

        • 『ガザモノローグ2010』その24

          24.マフムド・エル・トゥルクさん 1994年生まれ アル・ジャラア通り 戦争の前までは、僕は子どもだった……。でも戦争が終わって、自分がもう子どもじゃないことに気づいた。世界中のどんな街とも違って、ガザには子どもがいない。 戦争が始まった時、近所で遊んでいたら近くの人たちが一斉に逃げ出し始めた。何が起こってるの?って聞いたら、「イスラエル軍がこのあたりの家を爆撃するらしい」と言われた。走って家に帰って、それをお父さんとお母さんに伝えたよ。そうしたら、1分もしないうちに家

        「ガザ・モノローグ2010」その27

        マガジン

        • ガザ・モノローグ2010
          14本
        • 「葬送の花嫁」の前日譚
          5本
        • 仕事?論
          3本
        • コロナと演劇について
          11本

        記事

          『ガザモノローグ2010』その23

          23.マハムド・バラウィさん 1995年生まれ アッシュ・シャティ・キャンプ ガザについて一番美しく描写する言葉を紡ぎたいけれど、できない。貧困や包囲、飢餓について語らざるを得ないからだ。特に、ガザの街がアル・アリーシュに逃げる時、2時間で空になった時のこと。略奪された後の家、恐怖と病について語らざるを得ない。 ガザについてどんなことを言って欲しい? 気づいたらガザについてのすべてのことに悲しく感じるようになった。子どもが、大人でさえも、若者や女性や、女の子や動物、石、木

          『ガザモノローグ2010』その23

          『ガザ・モノローグ2010』その22

          22.マフムド・アブ・シャーバンさん 1996年生まれ アル・レマル あななたちは僕を狂ってるとかアホとか気狂いとかっていうだろうね、いいよ……、もうそんなこと気にしないから。実際、僕に起きたことは普通じゃなかった。まあ、友達を信じられなくなることは普通だよね。たくさんの人が信用を失ったわけだし。でも、僕は店先とか駐車場とか、警察署みたいなそういう疑わしい場所を信用できなくなった。個人的には、ガザ全体が疑わしい場所だと思う。つまり、戦争中に爆撃されたところは全部、近づくのが

          『ガザ・モノローグ2010』その22

          「ガザ・モノローグ2010」その21

          21.ムハンマド・カセムさん 1995年生まれ アル・サフツァイ通り 僕はおばあちゃんと家に二人きりでいました。おばあちゃんはこの国の昔話のなかでも特に悲しいやつを僕に話してくれました。でも僕はその話を全部聞いたことがありません。なぜなら、おばあちゃんは半分も話したらトイレに行っちゃうから! おばあちゃんは自分の時間の半分を部屋で過ごして、もう半分はトイレで過ごします。 おとうさんとおかあさんは、夜の10:30に帰ってきて、そのまま寝てしまいます。僕は眠れずに、ベッドに寝

          「ガザ・モノローグ2010」その21

          「ガザ・モノローグ2010」その20

          20.ムハンマド・エル・オムラニさん 1995年生まれ アル・シュザイヤー/アル・モンタール ガザの温かい腕と地獄の業火。恐怖、おそれ、死、破壊。そのさなかで、今回は、この地区は「安全」だった。占領軍が攻撃をする時はいつも、まず私たちが攻撃される。でも今回は、この地区を攻撃するのに飽きたようで、なにか変化を求めたようだ。ラッキーだった。 私は一日中椅子に座って、家から国境に向かって逃げていく人たちを見ている。荷物を持ち、息子や娘を連れて、西へ行く人たち。肩に子どもを乗せな

          「ガザ・モノローグ2010」その20

          「ガザ・モノローグ2010」その19

          19.ファティーマ・アタッラーさん 1996年生まれ アッシュシェイカーラドワン ガザの魚は逃げました……でも人々は逃げられません。下水道が海に開放されました。もし彼らに口があるなら、「あなたたちがガザと私たちにしたことに恥を知りなさい」と言うでしょう。音楽と演劇の学校の代わりに、ガザは射撃と殺人の学校になりました。 私は自然が怖いのです。ゴキブリも、鳥も、昼も夜も……。 戦争が始まった最初の日、私以外の女子全員が家に逃げ帰り、私が学校に残った最後の一人になりました。震え

          「ガザ・モノローグ2010」その19

          「ガザ・モノローグ2010」その18

          18.ファティーマ・アブ・ハーシェムさん 1996年生まれ アル・ジャラー通り ヨーロッパにいるパレスチナ人と話すとき、私は申し訳なさを感じます。私は彼らのようにはなりたくないのです。なぜなら、彼らは離散(ディアスポラ)の民だから。自分の夢を、別の土地で叶えようとしている。夢は人と場所の、両方によって叶えられるものです。 私はこの人生が好きで、演じることが好きで、みんなのことが好きです。いつかパレスチナの大統領になってみたい。そうしたら、愛と平和を広げられるし、憎しみと悪

          「ガザ・モノローグ2010」その18

          「ガザ・モノローグ2010」その17

          17.アリ・アル・ハサニーさん 1995年生まれ アルサフツァイ通り ガザで一番好きなのは、他のどんな国とも違うところです。他の国は、飢饉や包囲、国境分断や占領、破壊と死のような問題に溢れていますが、ガザにはそんな問題はないのです……。だから僕はガザが好きです。特に下水や道は綺麗で、人々はお互いのことが好きだし、物価は低くて、みんな幸せで、魚は下水道を泳がないから健康なんです。僕は絶対に飢えや貧困や、僕の家族の半分が命を落とした心臓発作なんかでは死なないと信じています。なぜ

          「ガザ・モノローグ2010」その17

          「ガザ・モノローグ2010」その16

          16.スハ・アル・モノルークさん 1995年生まれ アッタファ ガザは日々刻々と変わる。それが僕の夢が毎日変わる理由だ。いつも一歩前進するたびに、100歩下がってる。 戦争がやってきたとき、僕は学校から家に帰るところで、道がわからなくなっていた。急に男の人が目の前に現れて、「君の家はどこだ?」って聞いた。家の場所を教えたら、その人は僕を家まで連れてってくれた。帰ってすぐお父さんに「どうして来てくれなかったの?」って聞いたんだ。 そしたらお母さんが「いつものことでしょう。

          「ガザ・モノローグ2010」その16

          「ガザ・モノローグ2010」その15

          15.スジョード、アブ・フセインさん 1995年生まれ アッシュシェイカーラドワン 私がガザで一番好きなのは、人々の優しさと、その清々しい性格です。逆に一番嫌いななのは、政党による狂信的な言動です。ときどき、この愛と優しさの反対に、何か悪魔のようなものがいて、それがこの地を支配していると感じることがあります。もしガザが私の思い通りになるなら、明日にでもこのパレスチナ問題を解決するのに、と思います。 戦争中、ハマスのリーダーが暗殺されました。世界中のすべてのメディアがその事

          「ガザ・モノローグ2010」その15

          「ガザ・モノローグ2010」その14

          14.サミ・エル・ジャジャウィさん 1994年生まれ アッタファ 一日の中で一番嫌いな時間は、お昼の12時だ。試験が始まるといつも、また戦争が始まるんじゃないかって感じる。試験問題になんか一つも答えられなくなるし、いろんな考えが頭の中に浮かんできて嫌になる。僕は普通なのかな、それともおかしい? みんなは、ガザの海がどんな痛みも洗い流してくれるって言うけど、僕の痛みは海よりも大きい。最後に海に行った時、僕は友達と一緒に泳いで遊んで、楽しかった。でもだからこそ、もう二度と海に

          「ガザ・モノローグ2010」その14

          「ガザ・モノローグ2010」その13

          13.リーマ・エル・サディさん 1995年生まれ アッシュシェイカーラドワン アラブ首長国連邦からガザへ戻った時、私は9歳だった。私がガザを訪れたのは、それが初めて。道路を車で走り、その窓から通りを眺める。この街の全てが好きじゃなかった。信号待ちをしていると、車の周りに子どもたちが来て物乞いをしたり、ガムやビスケットを売りつけたりしてくる。自分のことが嫌になったし、UAEに帰りたくて仕方なかった。 でも私はいま、ガザに住んでいる。たとえパリかガザどちらに住むかと聞かれても

          「ガザ・モノローグ2010」その13

          「ガザ・モノローグ2010」その12

          12.リーム・アファナさん 1996年生まれ アル・サフツァイ通り まだ小さかった時、私は自分のことを世界一幸せな子どもだと思っていた。けれども、大人になるにつれて心配事も増え、だんだんとそうではないことに気づいていった。恵まれない子どもたち、という言葉の意味についても、だんだんとわかってきた気がする。 悲しくてしかたないのは、子どもたちが流す涙だ。それは、どんな国籍も地域も、人種も関係ない。小さいころ私は小児科医になりたくて、その夢は私の人生において生きる活力だった。で

          「ガザ・モノローグ2010」その12