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【稽古場の片隅から、希望を描く】『空腹』劇評

偽善とは何か。
それは、動機における不純さだ。

視聴率を稼ぐために、障害者が困難に立ち向かう映像を流す。
SNSで手軽な承認欲求を満たすために、戦争反対のポストをする。
選挙で当選するために、聞こえはいいが実現不可能な公約を並べる。

当然のように、偽善者は嫌われる。
これはこの世の道理だ。
だが、この世に偽善でない人などいるのだろうか?

かわいいコンビニ店員飯田さん『空腹』(脚本・演出:池内風)で描かれたのは、偽善者が善人を殺す事件そのものだった。その事件は鏡となり、観客のいる現実空間にも「あなたも偽善者ではないか」という問いを突きつけてくる。偽善者でないと言い張るのなら、目の前の問題に一生を捧げる覚悟があるのか、と。

以下、ネタバレをふんだんに含みながら、作品のメッセージが何だったのかを読み解いていきたい。

photo by bozzo

舞台は東京近郊にあるシェアハウスのリビング。まるで舞台の奥にそのまま生活空間が広がっているような、リアリティ溢れる具象的な舞台美術(美術:稲田美智子)が目をひく。そのまま臭いが立ち上がってきそうなほどである。

この家賃5〜7万ほどのシェアハウスには、それぞれの貧困を抱えた男女が集まる。
この物語は、そこで生活する人々の葛藤を活写した群像劇だ。

photo by bozzo

ウーバーイーツの配達員をしながら、妹の生活費を貯める小鳥遊陽向(廣瀬智晴)は、いつもシェアハウスのリビングを善意で掃除している。彼はこのシェアハウスの住人の中でも唯一の善人であり、表裏もなく、屈託のない笑顔を住人に見せる。

物語は彼と高校の同級生だった日下部青葉(長南洸生)の入居によって始まる。日下部は持ち前の人の良さによって、シェアハウスの住人に取り入っていく。派遣労働者の武藤勝次(渡辺翔)とスロットの話で盛り上がったかと思えば、フリーライターの朝桐京香(小林れい)から勧められたピラティスにも興味を示す。人の懐に入るのが上手い人物であることを示すように、彼のスマホは昼夜問わず、ひっきりなしに着信する。しかし、日下部自らそれを取ることはない。頑なに着信に応じない様子から、どうやら不穏な状況に陥ってることが窺えるものの、それをおくびにも出さないでいる。

シェアハウスの家賃は、オーナーの美濃部國光(吉田悟郎)によってゆっくりと、だが着実に上げられてゆく。1ヶ月ごとに共益費が3,000円上がったり、システム費という何に使われているかわからない費用が1,500円ほど上がったりする。住人たちは美濃部の表向き申し訳なさそうな態度によって矛を収めさせられる。終わらない家賃上げに対してまともに抗議するのは武藤だけだ。
この状況はまるで、よくわからない税金が課され、国民はそれに従わざるを得ないこの国の状況と重なってくる。多くの人にとって望むことといえば、武藤の恋人である倉下幸(橋本菜摘)の言うように、「ただ穏やかに生きていたい」ということだけだ。だが、金がなければそれすらも許されないという状況が、シェアハウスの家賃という形を通して浮かび上がってくる。

この国で生きるためには、働いて、努力して、お金を稼ぐことしか道がない。そんな閉塞感漂う新自由主義的な価値観の中で、スプレーアーティストの南雲遊(宇野愛海)の存在は一筋の希望のように思える。彼女は展示会に自らの絵を出品し、その絵が徐々に売れることを幸せに思っている人間だ。どうして金を稼いでいるかわからなくなるような、大きな経済のシステムに取り込まれずに、自らの手で生産したものが直接的に生活の糧になるということは、労働のあるべき姿である。だが、その喜びを満たせるのはこの中で彼女ただ一人のようだ。

そして、働くことができない者もいる。武藤は右脚をひきずっていて、肉体労働を十全に行うことができない。働いた日には、その苦しみをアルコールで漂白する。孤独に夕飯を食べる彼の耳に、過去に雇用主から辛くあたられた経験がトラウマの如く蘇ってくる。その声を消すためには、酒によって気を紛らわすしか方法がないのだ。

photo by bozzo

クライマックスで、美濃部は住人全員をリビングに集める。住人がこのような状況下にあるのを知ってなお、家賃を上げる説明をするためだ。度重なる家賃の上昇を、朝桐は異常だと抗議する。だが、その抗議も他の住人たちの耳には偽善に聞こえて虚しい。彼女自身は貧困の当事者ではなく、親から受け継いだ金によって働かなくてもよい生活が保証されているからだ。朝桐は、社会勉強のため、弱者救済のためにこのシェアハウスで暮らしていることを告白する。その行為は当事者たちの苦しみを無視した、見事なまでの偽善だと美濃部によって喝破される。
一方で美濃部は貧しい人を救いたいという気持ちでこのシェアハウスを立ち上げたと主張する。だが実際は美濃部も経済原則にとりこまれ、善人で居続けることができなかった人間である。その意味では、彼もまた偽善者であるという誹りを免れることはできない。朝桐と美濃部の違いは、自らの行為を偽善と認識しているか否かの違いだけであり、二人とも偽善者である事には変わりない。

二人の押し問答の末、武藤がしびれを切らす。彼にとっては国の法律や制度のことはどうでもよく、ただ目の前の家賃を払えるか否かが問題なのだ。そしてその声は、この国で生活している多くの人の声を代弁する声ではないだろうか。政治や経済や社会制度の話は難しく、どこか他人事だ。そこには当事者の声が無視されている。彼らの怒りの矛先は国ではなく、身近な他者へと向かう。その内輪揉めによって得をするのは為政者であり、この場合であればオーナーである美濃部だ。住人たちの抗議によっても決定は覆らず、家賃は上がる。

その夜、小鳥遊から金を借りていた日下部が、彼の善意にかこつけて金をせびろうとする。その頼みに応じない小鳥遊。「わかった」と冷たく言い放った日下部は小鳥遊を鉄パイプで殴り、無理やり彼のスマートフォンを強奪する。壊れた電子レンジによってブレーカーが飛んだ暗闇の中、声帯を殴られた小鳥遊の声にならない断末魔が響く。誰の懐にも入り込み、どんな人とも仲良くなれる日下部もまた、善を偽った悪人であり、彼によって小鳥遊が貯めた善意は刈り取られてしまう。

殴打の瞬間、客席から小さな悲鳴が聞こえた。

しかし、続くラストシーンでは、この事件の後まるで何事もなかったように生活を送るシェアハウスの面々たちが描かれる。彼らは小鳥遊と日下部がいなくなったことに対して、驚くほど無関心に日々を過ごしている。人間は人の生き死ににまるで無関心に、日々の生活を送れるのである。

このある種の残酷さが、昨今のウクライナやガザの情勢の惨さに麻痺したわたしたちの生活と重なるのは、やや飛躍しすぎだろうか。朝桐の所有しているヒューレットパッカードのパソコンや、スターバックスの紙袋、美濃部が持ってくる大きなAmazonのダンボールなど、PACBIによってボイコット対象となるイスラエル支援企業のロゴが載った小道具たちが、その残酷な無関心さを強調しているように思えてならない。

チラシデザイン:立花和政(デザイン太陽と雲) 
イラストレーション:Mayuki Oikawa 

演劇というメディアにおいて最も傍観者なのは観客である。
この作品ほど、その事実がまざまざと思い知らされることはない。観客は四千五百円のチケットを購入し、安全な場所からこの「空腹」という演劇を観ている。わたしたち観客は、登場人物たちが空腹に喘ぐ姿を、四千五百円で得た安全な空間から、ただ傍観するしかない。なんて皮肉なことだろうか。
その意味で、わたしはこの作品の上演が「事件」だと思った。客席に跳ね返す現実の刃が鋭すぎる。

この作品は、身近で起きている大問題を見過ごしながら生きているわたしたちへの最後通告、すなわち「わたしたちが偽善を許している限り、このままでは善い人が死ぬぞ」という刃を、観客全員の喉元に突きつけているのだ。

演劇という娯楽は元来、劇中に何本と開けられる、安酒の缶と同じである。
解放的な気分にさせられることもあれば、より深淵を覗かされることもある。今回は明らかに後者ではあるのだが、観劇後には不思議な清涼感が漂う。その清涼感の正体は、多くの観客がSNS上で指摘しているように、圧倒的な俳優の演技によるものだろう。

わたしの耳には観劇後数日経ったいまも、この作品によって覗かされた深淵の深さから、まだ声が聞こえてくる。
その問題、一生背負う覚悟がありますか」と。

もしかすると、自らの行いが偽善であることを知りながら、それでもなお善であろうとする人を、善人と呼ぶのではないか。そんな自己弁護をしながら、わたしは喉元に突きつけられた刃を退けようとしている。

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