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【稽古場の片隅から、希望を描く】その1

かわいいコンビニ店員飯田さん公演 『空腹』 稽古場レポート

「貧しいことは、悪いことなのか?」

夕方の電車に乗って、稽古場へと向かう。
スマホで予定を確認する。今日はかわいいコンビニ店員飯田さん新作公演『空腹』の稽古。
下北沢の小劇場を中心に、ストレスフルな作品をフルスイングで製作している演劇カンパニーの、満を持した新作公演だ。

今回わたしはスクリプターとして稽古場の記録を取りつつ、文章でこの公演の内容をお客さんに伝える役目を担っている。いわば、予告編の文章版といったところ。もちろん、終演後の感想合わせのために読んで頂いても大丈夫。
願わくば、ここに書きつけた文章が、公演を観る前のワクチン、あるいは観たあとの痛みの緩和剤になればと思いながらお届けする、エッセイ寄りの稽古場レポート。題して「稽古場の片隅から、希望を描く」 (全5回くらいになる予定です)


流れてゆく車窓の風景を夕日が包みこむ初夏の午後6時。さて、何を書こうかと公演チラシに目を向ける。空腹に苦しんでいるのであろう青年の印象的な絵を裏返すと、主宰の池内さんによる、斜め下から世界を殴るボディーブローのような文章が添えられている。そのデザインはさながら、事件現場に残された血の塊のように見える。以下にそのまま引用する。

チラシ表
チラシ裏

以前、本当の心の底から貧しかった時に、ある知り合いからラフティング(川下り)に誘われて断り続けていたのですが、あまりのしつこさに心が折れ一緒に奥多摩へ行ったことがありました。

自然に囲まれ、清流をゴムボートで降りながらフッと思ったのです。「帰りたい。これで交通費込みで8,000円くらいかぁ」と。金銭的な貧困はまさに心の底の底まで貧しくさせるんだと緩やかに流れるボートと、はしゃぐ若者に囲まれながらこんなことを感じました。

「アラブの石油王だったら俺もこのラフティングを楽しめたのだろうなぁ」と。そして気がつきました。

「人間は何かを楽しむためにも楽しむ分の心の容量が必要なのだ」と。
(中略)

https://iidasan.com/2024/04/21/408/

「金銭的な貧困はまさに心の底の底まで貧しくさせる」
池内さんの言葉がわたしのはらわたに響く。電車が引き摺られる音とともに、空の胃の腑に響いてくる。
たしかに暮らし向きは長いあいだ、低い水準のままだ、と思う。自分は大学生ぶりに口座の残高が4桁だし。それはさておいても、自分が生きている界隈の人間の「豊かじゃなさ」は、生まれて初めてこんなに低いんじゃないか。わたしの身近(演劇界隈)に裕福な人はいなくて、景気のいい話も聞こえてこない。
でも、演劇界隈以外は景気がいいんじゃない?そんなこともない?
みんな心が貧しい。そんな時代なのか、現代は。

チラシの文章はこう続く。

(中略)
演劇も物価が上がり、消費税もアップ。つまりは資材代や劇場費、電気代、弁当代も上がり、少しずつチケット代が高騰しています。世の中調べればアフィリエイトや広告収入、投資など、稼ぐための方法が出回ってるけど、それらを発見できない人たち、これまでの『真面目にコツコツ働く』ことが良しとされていた考え方からアップデートできない方は『無能』『頭が悪い』などと切り捨てられ、肩身の狭い惨めな気持ちのまま生きていく。

果たしてそんなことで良いのだろうか。
でも、金銭的貧さと心の貧しさって直結しないだろうか。

特別裕福でなくても、生活に困らずに何かあったときに耐えられる貯蓄があれば良いと思うけれど、それ、実は前より難しくなってないか。などと思いながら今の生活を守るために生きています、僕が。

今回貧困を通して、今、改めてこの世界で生きていく上での幸せのあり方を探りたいと思っています。

貧困は悪いことなのだろうか。
貧困だからと言って、だれかに蔑まれなければならないのだろうか。

かつては、仮に貧困だとしても、それは個人の問題ではなく、社会全体でケアしようという向きがあった、と思う。学校では、貧困になっても国が、社会が、誰かお金を持っている人が、助けてくれるはず、と習った。そんな文章を道徳の時間に読んだ。でも実際は、貧困は悪であり、その責任は自分で取るしかない。

これは極私的な意見に過ぎないが、こんな事態に日本がなったのは、そんなに昔のことじゃない。貧乏な人に対して「それは自己責任だ」と後ろ指をさすような風潮・思想は、大阪で破壊的なネオリベラル政党が台頭し、行政を掌握し、国政に進出してから特に特徴的なものなのだと、言えるんじゃなかろうか。

個人的には、その論理を振りかざし、何でもかんでも「自己責任」を押し付けようとする輩には断固としてNOを突きつけたい。この世には自己責任ではどうしようもない問題が、実際にある。一方で、先ほど言ったように自分の口座残高が4桁である事実は、これはわたしの所為だと甘んじて受け入れるしかない。自と他のアンビバレンス。

悶々としながら電車に揺られていたら、電車のデジタルサイネージが目に飛び込んできた。何カ国語にも翻訳されたニュースが、一画面に同時に映し出されている。そのニュースのある一つの見出しに、わたしの注意は惹かれざるを得ない。

【速報】「実質賃金」25か月連続の減少で過去最長 今年4月は前年同月比0.7%減
物価の変動を反映した働く人1人当たりの「実質賃金」が過去最長の25か月連続で減少したことが分かりました。
(後略)

https://news.yahoo.co.jp/articles/f07b181ca11498e2275d3899ac2781d5e1170c16

働く人の貧しさはこの2年と1ヶ月間、一向に上向いていないという事実。労働者は口々に「自己責任」と言い、誰かの所為にしたい不満を飲み込みながら、下り坂をそろそろとくだっている。

どうやら、現代は貧しい時代だというのは、一応の共通理解として良いのかもしれない。

こう反論する人もいるだろう。日経平均株価は史上最高値をつけている。円安は製造業にとっては好機だ。だから景気はいいし、大丈夫。きっとうまくいく。
……だが、そう言われても、今生きているわたしたちの生活実感が全く伴わない。そんなおためごかしは、ビジネス系YouTuberの再生回数の肥やしにでもしておけ。

でも、じゃあ、どうすればいいのか。
この状況を変えるためには……。

ニュースはいつのまにか大谷翔平の記事に移り変わっている。目先の不幸から目を逸らし、いっときの慰めに心を浸すしか、わたしたちに道は無いのだろうか。


……のっけから明るくない話題になってしまった。このレポートに自分でつけたタイトルの「希望を描く」から程遠い内容だ。(この時点で稽古場についていないので稽古場レポートですらない)
しかし、この作品を踏まえて希望を描こうとすれば、自ずとこういうルートを通らざるを得ない。それは、現代の「私たちの」貧困を見つめるというルートであり、貧困が悪いことだと決める価値観の源を探るというルートである。

希望とは、センセーショナルな言動からではなく、静かな観察の果てに生まれる感情であるはず。だからこそ、いっときの慰めとなる言葉は希望を描くのにふさわしくない。それはこの作品「空腹」についても同じことが言える。希望は、徹底的な絶望の先にようやく一筋見えてくる光だ。

次回は文中で触れたネオリベについて深掘りしつつ、貧乏=悪という考えとの戦い方を、過去の池内作品を拾いながら考えたいと思う。よろしければお付き合いください。

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