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いわゆる右脳(直感)と左脳(論理)について

根拠なき自信って言葉、ネタっぽくとられがちだけどこれが全てでは。自信に根拠なんていらないでしょ、探すだけ大変。だって自分じゃないかと思ったりする。

何事もバランスという結論には勝てないものの、ちょっと自分の感性をぶつけたくなった。世の中は左脳偏重で疲れるよねというありきたりなアンチテーゼ以上の奥行きは保証します。そもそもアンチテーゼしたいわけでもない。
※タイトルのような分け方はちょっと恣意的かもしれません。

と言いつつもありきたりなアンチテーゼにも他ならぬ価値はあるので触れたい。論理はなぜこんなにも重視されるのか。個人的には2つ大きな要素があると思う。

1つはわかりやすく成長したように思えるからだろう。筋トレのようにやればやるだけ身につく。例えばフレームワークを覚えれば覚えるほど知識となる。武器が増えて磨かれていく。知性が権威になっていく。

もう1つは、「頭でわかる」ことが共通言語になっているからだろう。論理が通っていることが根拠に他ならないし判断基準とも言える。論理は同じ土壌を有していない人に追体験させる手段であるというざっくりした私見がある。見たことない、聞いたことない、体感したことない、そんな時の伝える手段として機能しているように思える。

ここらへんに自分の感性だったり深掘ることが可能なテーマは散りばめられているが、それはまたいつか気が向いたら。

自分も○○分析とか組織論とかをがむしゃらに身につけて血肉と成していたことがある。それはそれで意味はあるし、誰にでも使えるようにフレームワークを作ってくれた先人には感謝しかない。ただ、論理的思考を鍛えて高めて、形を成していくにつれてどことなく違和感があった。

この違和感は2つで「遠回り」と「つまらなさ」だ。議論の余地なく自分ではわかりきっていることにそこそこ段階を踏んで辿り着いたりもした。ありきたりで味がなかったりして「専用の機械の発明まだかなあ」なんてオートマチック化を夢みたりした。

そんな自分が辿り着いた形を提示したい。誰でも知っている有名人の言葉を借りる。

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当たり前だろって派閥と意味わからんって派閥が生まれてそう。

簡単に言ってしまえば直感を論理で補正するということだ。
「何となくこうかな?」って思った時は自分にとってそうであることに他ならないだろう。その何となくをどうしてそうなるのか段々と論理をつないでいくと「あー。繋がった。」となる。

これは自分を使いきれているしスピードもある。ただ、先に述べたように直感に依拠したものはあまねく人には伝わらない。だからこそ、補ってあげる。ある種、繋がったという事実が他人に話すGoサインを出してくれてるかもしれない。

例えば自分の場合、「大声を出そう」という直感がでてきてこのように発信をしている。論理は長いし幅が広いので省略。(感性ごりごり人間に見えて論理を狂ったように鍛えた名残です)

押し出すエネルギーは直感に、変な方向にいかないように論理を添えてあげる。個人的なバランスのとり方のイメージ。みんなにとって当たり前かもしれない。忘れているかもしれない。論理が全てかもしれない。なんでもいいけど「左手は添えるだけ」って素敵じゃない?(バスケ漫画、名作多いなあ)

↓思考とかそういうところの関連として、昔こういうのも書きました
(タイトル変えるべきな気がしてならないnoteです)

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