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「窓」【エッセイ】六〇〇字

 「よし、やるぞ」。本が傷まないように、そっと両手でレモンを置き、逃げるように店を後にした。空に雲が流れる。 「やってしまった」(二〇二一年一月二十四日朝日新聞「窓」)。
 「窓」は、暮らしのなかにあるちょっとした奇跡や、感動的なできごとを、記者が取材し書き下ろす、日曜日朝刊のコラムである。
 冒頭のシーン。『檸檬』の最終部に重なる。ある女子高校生が、大好きだった書店が閉店する日に、切なさと感謝の印に、直木賞受賞作の上に置いて、走り去る光景を描いている。
 感動を覚えたと同時に、疑問に思った。記者がその事実をどのように知ったのだろうか。『檸檬』のレモンは、「爆弾」であったはず。
 店は、静岡県で一番大きかった、戸田書店。ネットで調べてみた。すると、記者が知るに至ったきっかけがあった。SNSだった。閉店の日に、店員が、レモン見つけてその意味を理解し、ツイートした。「いつの間に。素敵なお客様が、ご来店されたようです」と。
 そのあとに奇跡が重なる。受賞作の作者が気づきリツイートした。「書店さまとお客さまの素敵な交流のお写真、心が洗われるような思いで拝見し、またなんだかとても光栄」と。直木賞作家、川越宗一。『熱源』だった。
 そのやりとりに、「犯人」の高校生も反応し、ツイッター上で話題になっていたらしい。
 レモン置きは、本好きの象徴的な行為となっていて、小説の舞台、(新)丸善京都本店では、専用のかごを、設置しているようだ。

以下、「窓」の全文です。
二〇二一年一月二十四日朝日新聞朝刊「窓」

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いろんな思い伝えたくて 閉店の日、そっと残したものは

近所にあるスーパーの青果売り場へ行き、入って左手の山から一番きれいなのを選んで買った。自転車の前かごに入れ、ペダルを踏んで、通い慣れた道を走り出す。静岡市の左座歩実(さざあゆみ)さん(16)はその日、どうしてもしたいことがあった。

 駅を過ぎ、いつもの駐輪場に自転車をとめると、駅前ビルの2階にかかる「戸田書店」の看板を見上げた。思い出の書店がきょう閉店する。

 店内は、いつもより少し混んでいた。本の背表紙を眺めながら、書棚の間を歩く。4歳の時初めてこの本屋に来て、「はらぺこあおむし」を買ってもらった。小学生の時は青い鳥文庫を、中学生の時は参考書を買った。パラパラとめくるたび、新しい世界に踏み出す高揚感に包まれた。

 高校へと向かう朝、「いつもの一日がはじまるな」と思う。その「一日」には、友達もいて、家族もいて、英語や数学や期末テストがあって、それはそれで満足なのだけれど、なんとなく、そんなもの全て投げ出してどこか遠くに行ってしまいたくなる日がある。

 そんな時はいつも、物語の世界に没頭した。どうにもならない毎日を、自分の力で変えようとする主人公たちは青春に満ちていた。書店は、尽きない冒険の場だった。

 なのに数カ月前、母から戸田書店が閉店するらしいと聞かされた。「うそでしょ、そんなのムリ!」。わたしが億万長者なら、店を買い取るのに……。その日からずっと、お小遣いの限りを使って本を買い続けた。財布に52円しか残らなかった時はさすがに焦った。それでも買えるのはせいぜい月に5冊ほど。閉店は止められない。力になれない自分がもどかしかった。

 最後の最後に、書店に「ありがとう」を伝えようと思った。言葉で言うか、手紙で伝えるか。だめだ、それでは印象に残らない。「そういえばあの時、あんなことがあったな」と振り返ってもらえるような、その瞬間に思わず笑みがこぼれるような、ちょっと特別なことがしたかった。

 名作小説のコーナーに向かう。「これだ」。作家、梶井基次郎(1901~32)の代表作「檸檬(れもん)」を改めて手にとった。

 借金を背負い、病にむしばまれる主人公は、八百屋でレモンを買い、幸せだった頃によく通った書店へ――。中学2年の時、「本屋にレモンを置いてくる」というラストシーンがまんがで紹介されていて、意味を国語の先生に聞いた。その時初めて「檸檬」を知り、すごくおしゃれだと思った。本好きの間だけで使われる共通言語のようで、その意味が分かることに少し優越感もあった。

 スーパーで買ったレモンを、書店で一番目立つところに置こうと決めていた。きっと書店員さんなら、こちらの寂しさも、悔しさも、ありがとうも全て受け取ってくれるはず。

 あたりを見回し、レジと入り口を何度も往復する。特設コーナーに直木賞受賞作が平積みされていた。「ここならきっと気付いてもらえる」。カバンからレモンを取り出した。

 迷惑かも知れない。捨てられちゃうかも。レモンが腐ったらどうしよう。興奮と不安で胸が張り裂けそうだった。「置かせてもらいますよ、いきますよ」。心の中でつぶやいた。「よし、やるぞ」。本が傷まないように、そっと両手でレモンを置き、逃げるように店を後にした。

 空に雲が流れる。

 「やってしまった」

 自分の行為に驚きながら、ゆっくりと自転車をこいで帰った。雲を眺めるうちに、気持ちがすっきりとしていること、全てが終わったと感じていることに気がついた。「どうしようもなく、あの場所が大好きで大好きで大好きだった」。町並みが流れていった。(広瀬萌恵)

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