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日常【エッセイ】六〇〇字

 早大のオープンカレッジの「文章教室」が、4月10日に再開。その7回目のお題、「日常」(ドラマ性)でした。またまた、悶絶。悩みました。もんどり打った。どうやら、最後まで中止はないようです。残る課題、ひとつ。

 中止といえば、東京五輪を強行する気みたいですねえ。東京都の代表さん、(都議員選を意識し)「中止します」と、口滑らせないですかね。「排除します」発言のように。(笑

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 「わたしが一番きれいだったとき」の「わたし」よりも、母は3つ年上。終戦の時は、22歳。「一番きれい」な、時代だった。
 北海道・滝川から、東京・府中の遠縁に養女として預けられ、浜松町の養父の会社を手伝っていた。しかし、戦火が激しく、終戦1年前、3年で戻る。会社帰りの「銀ぶら」が、楽しかったという話だけは記憶している。母にとって、束の間の青春、だったに違いない。
 戦後2年目、親戚の紹介で結婚。後にDVで苦労することになる。挙句、東京に住む息子との、憧れの「銀ぶら」も叶わず、私が大学2年のとき、50歳で逝った。戦争がなければ、東京で別の人生があったはず(もっとも、私は存在していないことに、なるけど)。
 母とは6歳下になる義母は、大戦中、東京小石川の高等女学生。思春期を過ごした。母への想いが重なって、実母のように慕っている。しかしいまは、施設に。プロ並みの絵描きで、フェルメール好き。画集を持って訪問して以来、行けていない。外出はままならないが、施設内で絵を教えている、日々らしい。
 「年とってから凄く美しい絵を描いた フランスのルオー爺さんのように」、母の分も長生きしていただき、絵を描き続けて、欲しい。
 我々団塊世代の母親は、「わたし」の世代。「一番きれいだったとき」が、当り前の日常が、犠牲になった。さらにいまも、コロナ禍で。

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