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山里亮太さん『天才はあきらめた』の題名に込められた二重の意味

山里亮太さんと蒼井優さんの直近のエピソード(以下のニュース)に触れ、以前書いた記事を思い出しました。転載します。

「あきらめた」をめぐる自他の目線ギャップ!?

山里亮太さんと蒼井優さんの結婚報道は、普段テレビを見ない私にも「わあ」という思いをもたらしてくれました。改めまして本当におめでとうございます。

山里さんが人柄の良さそうな方であること、洗練された言葉選びにセンスが光っていることはシロウトの私にもわかります(な、気がします)。今日はそんな山里さんが書いた『天才はあきらめた』を読了しました。多くのタレントや芸人から「山里は天才」と言われているそうですが、彼自身は「不細工キャラ」に象徴される「イケてないキャラ」を売りにしています。実際はどうなのでしょうか。本書の題名からすると「山里さんは天才を自認していないばかりか、謙虚で努力家なんです」というメッセージが読み取れる感じがしますが、山里さんの言葉に直に触れてみると、(それらの要素はありつつも)相当な価値転換を行ってきた深みのある方だなという感慨をあらたにします。

2006年に『天才になりたい』を出版した山里さんは、当時「俺って天才になれるかも?」という自分への期待をもっていました(野心のある方には結構多く見られる感懐かもしれません)。ですが山里さんは、そのあと数多の挫折を経験します。苦衷は深く、今から考えればその当時の「俺」にこう言ってやりたい、と山里さんはいいます。

「当時の絶望、嫌いな奴にされた仕打ち、そして、そんな出来事に直面して抱いた自己嫌悪になるほどの僕の卑しい感情たちも、全て燃料にできるぞ」――。

言葉を選ばずにいえば、『天才はあきらめた』で描かれる山里さんは相当に鬱屈しています(スミマセン)。嫉妬深く、ひがみっぽい。変なプライドもあるので、「何者か」にはなりたいとも強く思う。ひとかどの者になりたい! と繰り返し繰り返し呪文を唱える。相方のしずちゃん(山崎静代さん)が大ブレイクした時には、プライベートで海外旅行に行くしずちゃんに大量のお笑いDVDをわたして、「旅行中に、この人たちとくらべて自分の何が勝っているかを研究して。あと、せっかく海外に行くんだから20くらいエピソードトークをもって帰ってきて」と言い放ったこともあったそうです(妬みで)。

そんな彼は、ある欲望を原動力にして、闘いました。

「モテたい」という欲望です。

彼のモテたい願望はすさまじく、かっこいいエピソードがほしいからと単身イタリアに行ったり、女性の手に確実にふれられるからと手相教室に行ったりします。芸人になろうと思ったのも「モテそうだから」という理由によりました。

モテたいがために(現実にはモテないがために?)山里さんは、全方位的な努力をはじめます。ネタづくりなら、たとえば「トイレに入って目の前にシミを見つけたら、おもしろいことを5個考える」といった具合に、です。山里さんは「俺には努力しかない」と気持ちにスイッチをいれ、努力のたびに「こんなに一心不乱になれる俺って、天才じゃない?」と自らに言い聞かせ、「自信貯金」をしたそうです。

これを読んだとき、わたしは、意味は違いますけれど、キングコング西野亮廣さんの「貯信」という考えを思いだしました。ちなみに「原付バイクのなかにF1カーが飛び込んできた」ともNSCで評された芸人コンビ・キングコングの登場は山里さんにとって相当な脅威だったらしく、「あいつらは〇〇だから俺と違ってうまくいったんだ」と自己正当化しようとした山里さんを木っ端みじんに吹き飛ばしたそうです。

しかし彼は、鬱屈をバネに変え、欲望を向上のエネルギーに価値転換して、こんにちに至りました(たぶん)。蒼井優さんの「魔性」性について聞いているであろう質問に対し山里さんは

「みなさん心配されますよね。さっきから出ている単語、あるじゃないですか。そういうの、一切心配してないです。みなさんの目の前にいる蒼井さんと違う蒼井さんを僕は見せていただいているんで。ほんとに純粋で、楽しい時には笑って、おいしいものを食べた時はコロコロ笑って、泣きたい時はすごく泣く。みんなが思い描くのって、ちょっと違うでしょ。魔性って言葉使ってるけど、僕はそんな人間じゃないっていうのを一緒にいて、ずっと見てたんで」。だから「魔性」から発生する心配は一切ないです――。

と語りました。

突然ですが、仏教では、「諦め」を「あきらかにみる」ととらえます(何の話よ)。ものごとを正視眼でありありと見るということです。本書のあとがき的なところでオードリー・若林正恭さんが山里さんの天才性を語っていましたが、それから察するに、たぶん周囲からみたら山里さんは「(山里という)天才は芸をあきらかにみた=天才はあきらめた」と見えるのかもしれません。しかし山里さん自身は「天才になるのは断念した=天才はあきらめた」と思っている。双方向が「山里はあきらめている」とミスマッチ的に感じていた感懐が、そのまま本のタイトルになった。この(私の勝手な深読みによる)ギャップに私自身がしびれました。

仏教は「仏になる」ことを目指すものですが、仏を自称したりはしません(ほぼ)。「俺、仏です」と自分で自分のことは言わない。でも、まわりからしたら「この人をおいてほかに仏があるか」となる。山里さんの自己評価と周囲の評価・理解のギャップが、その構図に似ていたので、仏教オタクの私なんかは本書を「ああ、仏教書だ」と思ったのでした。欲望を活かすという発想は、密教的でもありますし。

いやあ、とても心があらわれました。

ほんとうに、おめでとうございます。

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