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週間レビュー(2022-11-15)_1:99=ウルトラ必殺技:必殺技

3週間ぶりにの執筆になってしまった😢

体調を崩したり、躁と鬱のサイクルが極端に早まってしまったり、めちゃくちゃ仕事が降ってきたり…と振り返ることができていなかったのだけど、この1週間のレビューは何よりも自分のためのものであるし、だから文字に起こすことを始めたので、これからも習慣として馴染ませていきたいと思っている。

演劇手法というメディアについて

友人が関わっている案件やプロジェクトにはできる限り顔を出すことにしている。建築デザインは比較的閉じ(すぎ)た場所であり、偶然に任せた経験より多少気が乗らなくても外に出て、日常では触れないものに触れようとしなければ何も気が付けないからだ。
というわけで、友人が手伝っているグループが行う演劇を見に来た。作家は谷碧仁という方で、テーマは10代の葛藤(多分)。

14歳~19歳 未来を担う10人が挑む「革命」の物語
いつだって大人の都合に振り回されるんだ。 俺ら僕ら私らうちらは。
もううんざりだ。学校の「都合」という爆弾に耐えるのは。親の「言いなり」というミサイルに怯えるのは。
我々民間人である生徒が、今立ち上がらなければいけないんだ。
これは、中学生10名による「革命」の物語。 オノマトペ。僕たちの声はどう聞こえますか?

https://oneloveoneheart.jp/news/news-396/

ボディコピーだけを読むとどこかしゃんとしない創作のように思えたのだけれが、劇場での演劇体験で得た印象はとても重厚で感情的には重い、そしてある意味で社会への課題提示のような強さを感じさせる作品だった。
中学生、高校生の頃のドロドロとした社会不満や躍起になりながらも自分の輪郭をつくろうと必死に掻き回す感覚…特に友人関係だけに閉じこもった世界の中での個人の立ち振る舞いや家庭などのしがらみなど…個人的には自分の比較的(というかかなり?笑)暗いが、自分にとっては凄く大事な時間だった14~18歳くらいの情景や感覚がサッとフラッシュバックしてきて、少し演劇を見ながらしんどくなるくらいだった。しかし、23歳も後半戦になるこのタイミングで10代の気持ちを再確認できて本当によかったと思う。

演劇を見ながら再確認したのは、自分の孤独性の根幹と建築デザインをしてしまう理由についてのような気がする。
18歳あたりからの経験によって対人的なコミュニケーションインターフェイスの感覚を持つことができるようになったけれど、それまでは誰かと心を交わすこと、誰かを信じること、人を期待すること、誰かに認めてもらうことなど期待も評価も全くできなかった卑屈で自己肯定感の消えた少年だった。それは個人の資質と環境がかけ合わさった結果として悲しいことに。
しかしその分、個人的な社会思想や社会正義のあり方、社会へのレジスタンス的な姿勢のようなものは強まったのだろうし、その卑屈で悲しげな態度に可能性を感じて10代の自分と接してくれた本当に少しの大人には頭が上がらない。
当時、唯一他者から認められたのは、文章能力と創作能力、知識の構造化の力、または過度な集中力だけだった。それ以外のことは全くダメダメで、学校にも友人にも何も期待されない状態が続いてた。なので、もう自分にはものを作る、書く、没頭する以外で誰かに愛されることも、認めてもらうことも、友達が増えることも、意思疎通もきっとできないのだろうと思ったのだと思う。今もどこかでそのように思っている。だから、それらが身に染みてるので、話さなくても、メディアになる建築デザインをしているのだろうと思う。
また、環境自体への怖さ、仕組みに対しての恐怖、誰かに未来を規定される構造に対しての怖さは、自分を建築というフィールドに引きづり込んだ理由でもあると最近建築デザインを学びながら感じるところである。これは確実に学校というゲームルールへの個人的な不適合性からくるものだ。
つまり、環境設計に対しての反抗、どのように設計されているかわからない環境に対しての恐怖という動機が、自分が環境を設計することのできる唯一の対抗するための武器として建築を欲している理由でもあるのだろうと思っている。
そんな気づきを2時間で与えてくれた演劇の力はやはりすごい。

あなたがすることのほとんどは無意味であるが、それでもしなくてはならない。それをするのは、世界を変えるためではなく、世界によって自分が変えられないようにするためである。

ガンディーの言葉のように、世界、または環世界を認識しようとしなければ自分が変えられてしまう、そこに対しての恐怖というものを和らげる、または取り除くために建築というワールドの創造のような技術を欲していたのだろうなと。好奇心の対極の動機として、恐怖から解放されたいと考えていたのだと思う。

演劇手法についても書きたかったのだが、こちらは今制作している劇場設計が完成するまで取っておこうと思う。

Designshipと濱口さん

AIと変わらぬ人間のデザイン
Designship2022にオフライン参加。凄くポジティブな系統のデザインをたくさん受け取ったのだが、建築的デザインと、UXUIやインハウスデザインなどは文脈や言語がここまで違うのかと認識できたことも大きい気づきである。
デザインが経営やビジネスの力になるというのはIDEOをはじめとするデザイン思考のようなフレームワークの開発と普及による一種のデザイン信奉であり、価値創造手法を自ら生み出せなくなった思考停止と技量不足な(これは画一的で自由意志を押さえつけてきた教育指針が原因であるのだけど)ビジネスマンの皆様にとって、短絡的な思考プロセスの餌のようなものだからだ。このようなデザインの話と建築デザインは、複雑性に対しての解法と不可逆性、そしてアイデアの力という3点で全く異なるものだと思う。

また、デザインはまさしくみんなのもの的な話はすごくわかるのだが…みんなが等しく自分のデザインを民芸やDIY的に愛でることには良いことであり豊かさに繋がるのそうだろうけど…という気持ちが強い。しかし考えてみると、簡単なデザインはもはや片手でもできるほどに創造のコストが下がっているからだ。デザインはみんなのものになったと同時につくりがいのない簡単なものになり、より表層的な整えの作業になったといえる。(伊藤穰一のコラボレーションコストの低下の話と同じだろう)
AIの画像生成が出てきているが、私たちがユーザビリティの極めて高いデザインソフトを用いてデザインしているそれは、AIによる生成と何が違うのであろうか?誰でも作れるようになるということは、付加価値もそれ自体への価値も最小単位になることである。自分で解明できないアルゴリズムやコードの出力に踊らされながらものを作っているとも言える。これは本当に社会におけるデザインの意味なのだろうか?その辺り、デザイナーと呼ばれる人間は真剣に考えるべきであり、アーキテクトとデザイナーの曖昧な差異のような気もしている。

濱口さんとの会話
今回本当にお金を払ってよかった!!!と心から思ったのは、濱口秀司さんによる1時間ちょっとのプレゼンテーションと濱口さんと懇親会で30分ほど対面でお話しする時間をいただけたことだった。本当によかった。本当に。

濱口さんには前提「説明不可能な個人、つまりコモディティ化しないように自分を立ち上げ、自分以外を力によって制していく」というものが前提にある気がした。力というのは暴力的な意味合いではない、より世の中にとって本質的なものを作りあげる力という意味である。

「アイデアのフェーズは多産多死であり、多くの企業や人々が自分のアイデアや考えを通せないか、却下されてしまいます。どのようにして自分のアイデアを通していくのですか?」と質問したら「アイデアの質をまず上げなければならない。それを作るのは経験量でしかない。1つのプロジェクトを与えられたら人の3倍は動かす、そして10回以上テストする。それによってアイデアの硬度が生まれ、どのような反論や意見もロジックで対応できるようになる。俺は失敗は嫌いだし偶然に任せることはクライアントのリスクだ。偶然に備えるためにロジックと思考のテストを何度も重ねる。」
「あと最後はパッションだ。心から人を動かすには自分のパッションを伝える、パッションがあるからしつこさを作れる。しつこいから観察眼が磨かれる。これを作りたい!これが確実に変化を作る!とここから思えるまでロジックを作ることだ。」という。

そして、建築について問うと、自分は坂茂が好きだ!彼は被災地にもどんどん自分でいく、イノベーションを欲しているから豪傑で良い!(あなたも十分すぎるくらいに豪傑で天才なんだけれど…と思いながら)と言っていた。
建築は統合的に形作るところが良いという。数学物理もやれば審美眼も新たな価値創造も複雑に考えねばならない。常にmodeに入れるように1人で動き回れるから良いぞ!頑張れ!と言ってくれた。濱口さんもしやウィルトウィルスでしょうか…

やはり、建築で形にしアイデアの力で人と勝負できる人になりたい。今進行中のプロジェクトも自分の実作もその気概で一つづつやらねばならないと思った。彼も若手の時に凄く地味に努力と試行錯誤をしている。自分もそれくらいやらねばならないと思う。

クリエイティブテンションに持っていくにはStructuredとchaoticの中間のmodeに状態を持っていかねばならない。
スキルがあるとか当たり前であり、必殺技を何個揃え、その上ウルトラ必殺技を何個持てるか!
自分はスキルはあっても必殺技はなんなんだ?ウルトラ必殺技はなんなんだ?と。考えよう。
安直な計画してばかりし、偶然を最小化するように実行するのではなく、偶然に備え、楽しむために計画を怠らないというのが本質であると。そして何が世界を変えるひずみになるかわからないから大きいものも小さいものも同様にやれ!と。

日常的に建築界隈に属していながら、建築系の人と仕事や会話することが意外と少ない。自分はできるだけ建築系という枠組みを徐々に溶かすために動いてるところがあるからこそ、他者と会話しているとなんで建築をやっているんだろう?どうして建築はここまで輝けないのだろうと思ってしまうタイミングが何度もやってきたりする。お金のこともあるし。
しかし…「なんで、建築をやっているんだろう?」の前に「とにかく作れ」でしかないし、何かを犠牲にしても、例え誰にも気が付かれなくとも建築をやらねば、何かを作らなければ自分の生命を獲得し、生きてると感じながら生活することができないのだと思う。新しいものを作ることは生きることなのだ。それがあわよくば、社会にとって+になったら良いくらいでいいのだと思う。

とは言っても、やはり「何を志している人間なのか?」に対してもっとポジションを取らねばならないし、命を懸けながら頑張ればならないし、それをベースにして何かもっとスピード感を持って作らねばならない。
建築をやっているとどうしても長期的な経験がないと発言すらも許されないような長いモラトリアムが前提のようになってしまうが、世の中の若い起業家は、僕らが技術的なもの美的感覚をゆっくりと磨いている間にどんどん社会を良くしていこうと動いているのを肌身で感じる。悔しいし焦る。なので、雑務を蹴って、建築の力のようなものに対してどっぷりと向き合うタイミングを年末年始で確実に作りたいと思っている。うん、もっと手を動かしたい。進路もあやふやなのだけれど、少し好奇心ベースで良いから個人的なまとめを整理しようと思う。

森ビルのエリア戦略

森ビルの投資家向けのプレゼンテーションルームに招かれる機会があり、森ビルの虎ノ門エリアをはじめとした計画について詳しく話を聞く機会があった。多くのデベロッパーと仕事や協働をしてきたが、おそらく初めて好感を持った計画であり東京という都市への向き合い方であるなと思った。
これからの東京都いう国際都市のプランニングはどのようにするべきで障壁は何か?という問いを聞いたのだが、やはり民間デベロッパーが国内でせめぎあいながら事例のトレースをしたり、差別化を図ったりといった市場原理による都市成長の限界性のようなものを指摘しており、やはりそうだなと感じた。戦後以下公共土地の払い下げにより民間財閥などからデベロッパーが生まれ(それにより急速に復興は早まったが)これからはもう少し統合的な都市的プランニングが必要不可欠なのだと思う。

オリンピック誘致にも用いられたというプレゼンテーションルームは体験設計〜会議室までOMAによる設計らしいがさすがだった。ネリ=オリックスマンの作品もヘザウィックスタジオの虎ノ門プロジェクトの設計プレゼン図録もあり、本当に最高な場所であった。(写真の共有は禁止なのが残念)
このくらい大きなデザインプロジェクトや建築設計に携わってみたい。都市の見せ方、都市への期待のさせ方の最高峰のように思った。東京はやはり良い都市だ。

その他

都市を作る側の挙動の問題
日本橋のフライングペンギンというコミュニティバーにお邪魔させてもらった。東京の再開発に対しては否定的であり、この領域はこういう人たちが触ってこの形になっているのだなと納得した反面、おそらく再開発の統合的なディレクションに建築関係者はもう少し入っていく必要を感じる。
調整力や紹介力、お上を立てる論理で新たな都市は生まれるはずはないし、「都市を徹底的、新たなもとしてに作る」という感覚の欠如がプランナー達には欠けているのだと思う。危機感の薄れた大企業が手がけるプロジェクトほど、生き延びるためのプロジェクトになりがちであり、生活のためのプロジェクトであり創造ではない…それが故だと思うな。

教養主義と若年層について
Newspicksのカンファレンスのアフターパーティだけ参加したが、企業による若者の囲い込みのようなものにはやはり忌避感を覚えてしまう。もちろん低賃金で労働者を雇いたい、なんとなく経験という負荷を与えたいということのためのインターンという形式なども。大学自治や学生自治の時代や教養主義の時代が完全に終わり、ネオリベに10代以下もどんどんと侵食されているので(その場にいることによる高揚感と相対化、優生思想的な感覚などなど)エリートと呼ばれる大衆的な学閥派は腐り、ここから何かは生まれることはないと改めて思った。少なくとも自分には居場所を作れないのは自明なんだろうなと。

テンションのタイミングについて
個人的にテンションの高まるタイミングやプロセスに対してちゃんと嗅覚を持つことがとても大事だなと思う。ありたい姿や自分像ではなくテンションやバイブスの高まる瞬間をちゃんと獲得するために生きて、そしてそのテンションを最大化するウルトラ必殺技を持っておくことだな

性愛について
宮台さんのこのツイートを見て、自分は頭でわかっていても本当は何もわかっていないのかもなと思うことが本当に多くある。誰かをちゃんと愛することも大事にすることも怖くなってしまうのは命懸けで誰かを大事にしようとしたことが本当は一度もないからなのかもしれない。(わからん…)その点で自分の人間的な劣化が激しいのかもなあなどと最近の体験を思い出したりして沈んだりする。しかしちゃんと向き合わねばならない。


長くなりましたが終わり。11月は人としてちょっとだけ進化した気がしています。今週も頑張ろう。

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