学習におけるカイゼン(改善)とは
一時期「日本語が英語になった」と話題になったカイゼン(Kaizen/改善)
私が考える改善状況を述べてから、最後に「学習の改善」に触れたい。
以下の状況である。
「コストが安い」と思って手を出してしまう。
「良いコストだった」と思いたい気持ちがある。
「良い効果があるように感じる」
「付加価値もあるように感じる」
「しがらみもできてきた」
しばらくして「なんだかマズイぞ!」と気付く。
「コストが安い」と思って始めたことだと忘れている。
いまだに「良い効果があるように感じている」
いまだに「付加価値もあるように感じている」
いまは「しがらみもできている」
この時、正しく問題点を受け入れて、改善できるだろうか。
そもそも、
「コストが安い」と思って手を出したのが発端だが、
コストに見合う、
本当に「良い効果が出ていた」のか?
本当に「付加価値も出ていた」のか?
本当に「しがらみは正しかった」のか?
これらは、あまり考えたくないことである。
逆に、
既にコストは出しているのだ!
新たな改善は、さらなるコストに見合うのか?
本当に「良い効果が出せる」のか?
本当に「付加価値を出せる」のか?
本当に「今のしがらみを捨てられる」のか?
これらの気持ちが、改善を思いとどまらせる。
「コストが安い、を大事にする気持ち」も捨てられないのだ。
「思い込みたい気持ち」でもある。
それは、
改善に伴うコストはどれくらいだろうか。
改善に伴い、何に/どこに影響が出るだろうか。
にも関わってくるからだ。
改善とは、このように後始末(修正)に近いものもあるのだ。
もちろん、今まで最善を尽くしてきて、さらに最善を求める改善もある。
英語になったカイゼン(Kaizen)とは、より最善を求める方の意味である。
どちらの場合も
改善に伴うコストはどれくらいだろうか。
改善に伴い、何に/どこに影響が出るだろうか。
が重要になることに変わりはない。
だが、
「安物買いの銭失い」に近いものの後始末(修正)と
最善をさらに最善にするカイゼンと
では、「問題点の追求の、し易さが違う」と感じてしまう。
「後ろ向き」と「前向き」での検討方向の違いである。
イメージしやすいかと思い「安物買いの銭失い」の表現を使ったが、
コスト(=損失/代償)の意味で表現している。
学習における「コストが安い」とは、
「安易に、誰かの解釈を受け入れる」ことだ。
自分の学習において、何かを定義するということは、
今まで(頭の中だけであっても)持っていた定義を捨てるコスト(損失)
を払って、「新しい定義を導入する」ということである。
つまり「カイゼン(Kaizen)」であるべきだ。
見ていただいたように改善とは大変なコスト(損失)を伴う。
「あの時こうしておけばよかったな」の
後悔が少ないようにしたい。
コスト(損失)は、簡単な定義ならそうでも無いのだが、
英語には英文法の定義だけでも沢山の定義がある。
語彙の意味定義も合わせると膨大な定義量だ。
それら定義同士が、関連付いていたりするから、
1つの定義の見直しとは、複数の定義の見直しを伴うことが多い。
そうなると大変なコスト(損失)が発生するのだ。
後始末(修正)の改善とは、学習においても「後戻り」である。
そこから学べることも確かにあるのだが、これが何度も続くようなら、
「学習の効率DOWN」どころの話ではない。
いつまで経っても「学習が進まない」ことにも成り得るということだ。
(そして「自分には無理だ...」と思わされてしまう)
定義したものが、「安物買いの銭失い」とならないよう、
じっくりと、
「自分の基準となる定義」、
「xxxx英文法」を最善なものとして考えたい。
(急がば回れ、である)
ここで定義と言うから難しく考えてしまうかもしれないが、
自分の頭などに「メモする前」に、
そのことについて
「一旦しっかり考えてみよう」
ということだ。
それが
「誰かの定義」ではなく
「自分の定義」にしてくれる。
その時の最善を尽くして、しっかり定義を考えていたならば、
次のカイゼン(改善)もきっと「前向き」に検討できるはずだ。
それが「xxxx英文法」の進化&更新の
推進につながることになる。
つまり、
「学習の効率UP」につながるのだ。
これこそが、私が考えている
学習における大事な「カイゼン(Kaizen)」である。
※以下については、それぞれ別記事を参照いただきたい。
「メモする」とは何か?
→ 「masa英文法」 - what の記事後半で触れている。
「xxxx英文法」とは何か?
→ 「xxxx英文法」について の記事で触れている。
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