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#16 心の声を聞くために、読書を続ける

読書というのは不思議なものだ。

本に書かれている内容は変わらないのに、読み手によって感じ方が全く違ったりする。

また、100年、200年前に書かれた作品であっても、「新鮮」と感じさせる作品もある。




最近、坂口安吾の『堕落論』を読んだ。

終戦の翌年、1946年4月に書かれた作品で、もう時期80年が経とうとしている。

文体は当たり前であるが現代とは違って、固く、古い表現だが、日本人の弱さを指定し、日本の政治を批判しつつも、なお日本人にエールを送る独特の論風は、今読んでも新鮮さを感じるし、安吾の「日本人論」は見事に的を得ており、現代にも通じる普遍的なものであると言える。


小説も然り。

西加奈子作品の中でも、太宰治作品の中でも、登場人物に深く共感する瞬間がくるし、あるいは登場人物を通して自分自身(読み手自身)を客観視し、自分でも気づかない日常の些細な心の動きも言語化することができたりする。

読み終わったあとに、「これこれこういう人がいて、こういうことが起きて、最後にこうなった」という風に説をまとめられることが小説(小説を読むこと)だと思っている人が多いが、それは完全に間違いで、小説というのは読んでいる時間の中にしかない。読みながら色々なことを感じたり、思い出したりするものが小説であって、感じたり思い出したりするものは、その作品に書かれていることから離れたものを含む。つまり、読み手の実人生のいろいろなところと響き合うのが小説で、そのために作者は細部に力を注ぐ。

保坂和志『書きあぐねている人のための小説入門』


読書というのは不思議なものだ。

僕は本に書かれている内容にこそ価値があるものだと思っていた。

だが、読書の主役はいつだって自分だ。

僕は僕の心の声を聞くために、読書を続ける。

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