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【読書録33】致知 2022年3月号 「渋沢栄一に学ぶ人間学」 感想

 今回で6本目となる致知の感想。

 
 致知3月号の特集は、「渋沢栄一に学ぶ人間学」である。
一冊丸ごと、渋沢栄一。

 以前、渋沢栄一の「論語と算盤」については書いたことがある。

 改めて、渋沢栄一について、今号のメインパートの4つの対談記事のうち、3つから得た学びを書いていきたい。


【対談1】渋沢栄一が歩んだ道

 作家の北康利と渋沢資料館館長の井上潤の対談記事である。
北康利は、渋沢栄一の評伝のタイトルとして、「俺がやらねば誰がやる」という意味の「乃公出でずんば」を選ぶ。

 まさに渋沢栄一の気概をあらわす言葉であるが、そこに込められた意味が面白い。

現代という世界中の情報が十分に手に入る時代にあっては、やるべきことはわかっているし、その方法もわかっている。あとは「やるかやらないか」の問題である。
 そのような中、誰かがやってくれるという「一億総評論家」では何事も前に進まず、「俺がやらねば誰がやる」という気概と精神をもった人間が今の日本には必要。

 この「やるかやらないか」という視点は大切にしたい。

 また渋沢の特徴として、その時の状況や環境に応じて柔軟に対処して道を開いて言ったとしている。幕末から明治にかけての行動は、時代の環境の変化、時代の先を見て、変わることを恥と思わなかった「日本の偉人の中で最も変わった男」と言う。

北は、こう言う。

「特に若い人には、自分の人生は自分で決める、自分の人生はどこからでもやり直せるし、変わることによって人生は開けていく。その見本として渋沢の生涯を学んでほしい。」

 変化にどう対応していくか?

最近の言葉でいうレジリエンス。人生100年時代には、ますます重要になっていくであろう。

【対談2】人生や仕事に生かす渋沢栄一の教え

 中国古典に関して多くの本を出している作家の守屋淳とメディアへも多数出演する明治大学教授の齋藤孝の対談記事である。

 守屋は、渋沢の前半生につき、揺れ動いていたが、志は一貫していたと言う。その揺れ動きを柔軟性と言い、柔軟性は志の高さゆえのものであるとする。

 齋藤は、その柔軟性を「修正力」と呼ぶ。渋沢は修正力が非常に高く、しかも「スピード感ある修正力」を持っていたと言う。

 その背景に、時代の切迫感があったと言い、「いくら志が高くとも、実行が遅い人は志に欠けるように思う」と言う。

 守屋は、渋沢や戦争を経験した戦後の経営者たちが、志を維持し続けることができている背景に「自分が生き残った人間である」という思いがあると考える。それに対して、いまの時代、危機感や切迫感が抱きにくい中、志を腐らせずに持ち続ける秘訣があるか?と齋藤に問う。

 齋藤は、自身の経験から、➀「伝記を読むこと」で公の志を持った人物を知ることと、➁「現実感」「現実を知ること」で危機感・切迫感を抱くことが志を育むのではないかという。

 歴史から学び、現実を幅広く認識する事で時代の潮流を理解すると言うことではないかと理解した。

 守屋は、渋沢栄一に学ぶべきこととして「しつこさ」をあげる。柔軟さや修正力も大事であるが、日本の近代化や世の中の幸せのために必要だと思うことは、粘り強く花開くまでやり抜いたという。

 それに応じて、齋藤は、渋沢栄一の「自ら箸を取れ」と言う言葉を紹介する。この言葉には、まず自分が先頭に立って実践せよとの意味が含まれていると説明する。

 また渋沢栄一の行動力が高かったのは、知ることと動くことが一体化していたからであるとして、実践を前提にした勉強を行っていたとする。

読書についてもそこから得た知識や情報そのものに価値があるわけではない。それが血となり肉となり咄嗟の場面で活かせて初めて価値がある。渋沢栄一も幼い頃から「論語」を暗唱していましたが、体にしみ込んだ言葉や教えを、様々な経験を通じて改めて知る体験を重ねることで、その教えの理解が一層深まっていくのだと思う。

 実践や経験から如何に学ぶか。そして学びをどう実践につないでいくか。常に私の課題である。

【対談3】人間力を高める「論語と算盤」の言葉

 安岡正篤師の孫で「こども論語塾」の講師を務める安岡定子と侍ジャパントップチーム監督の栗山英樹の対談。

 栗山は、日本ハム監督時代、選手に「論語と算盤」を配っていたといい、その理由を以下の通り言う。

僕が選手たちに「論語と算盤」を配るのは、野球人としての成功はもとより、それ以上に人間としての成功を掴み取って欲しいと願うからでもあるんです。

 大谷翔平選手は目標シートに「毎日この本を読む」と書き入れたという。そして、渡米前には、栗山に対して今読んでいる本として、安岡正篤や中村天風を挙げたという。

「論語と算盤」や安岡正篤や中村天風などの著書が、今の常識に囚われず、高い視座で二刀流に挑戦する大谷選手の考え方のバックボーンになっていると考えるとなるほどと思う。まさに大谷選手は、学びと実践をつなげている人なのである。

 安岡は、論語講師として、今の世の中で「論語」の精神を実践しようとしたら、「論語」と算盤の両輪がないと、精神世界を求めるだけでは進んでいけないという。

孔子の言葉を「かくあるべし」と捉えるととても窮屈なものになります。それが実践できなかった時に「次は気をつけよう」というほどほどの距離感を持って読むことが大事だと思うし、渋沢さんはその辺の塩梅が絶妙なんですね。

 本来のあるべきでないときに、胸の中に痛みが残るか、そして次回以降そうならないように努力する。反省ある毎日を送るということである。

斎藤佑樹選手は引退会見で、こう言った。

「諦めて辞めるのは簡単。どんなに苦しくてもがむしゃらに最後までやりきる。栗山監督に言われ続けた言葉です。この言葉通り、どんなに恰好悪くても前だけを見てきたつもりです、ほとんど思い通りにはいきませんでしたが、やり続けてきたことに後悔はありません。」

 栗山の言葉の背景には、彼が、「論語と算盤」の中で好きだという、「成敗は身に残る糟粕」の項が感じられる。

「成功や失敗のごときは、ただ丹精した人の身に残る糟粕のようなものである」と人間は人としての務めを全うすることを心掛けなければならない言っています。

 安岡は、祖父の言葉として、「わからないことはその日のうちに丁寧に対応することを習慣にしたら、おのずから大きな結果につながるもの」を紹介して、祖父から解決策は自分で考えること、わからないことはわからないままにしないことを良く言っていたと言う。

それに対して、栗山は、渋沢も習慣の大切さを述べているとして、その言葉を紹介する。

何人も平素心して良習慣を養うことは、人として世に処する上に大切なことであろう。

プロ野球の世界でも、凄く能力はあるのに、最後に気が抜けて失敗してしまう選手がいる。それは、習慣の問題だと気づいたと言う。

小さな習慣をきちんと続けて行くことが、プレーの最後まで緊張感を持続できるかに繋がるとする。

「志すとは行うこと」

 本書では、渋沢栄一名語録 人生繁栄の法則として、渋沢の言葉を紹介するが、そのうちの一つが、「志すとは行うこと」である。

志すとは行うこと
志すことは必ず行わねばならない。行わざる志は空砲である。無駄花である。


 「行う」とは?

 編集長は、巻頭で城山三郎の言葉として、渋沢が3つの魔を持っていたとする。

➀吸収魔 良く勉強して吸収してやまない人
➁建白魔 よく立案、企画建白する人
③結合魔 人と人とを結びつけてやまない人

「行う」とはこの3つではないか?
吸収して終わりではなく、きちんと提案して実行する。そして新たな事を創造するには、人と人を結びつけるのが必須である。

「天意夕陽を重んじ、人間晩生を尊ぶ」

 巻頭特集の最後に書かれた「天意夕陽を重んじ、人間晩生を尊ぶ」と言う言葉を最後に紹介したい。

人の一生に疎かにしてよいという時はない。一分一秒といえども、貴重の時間たるに相違ないが、その中でも余は晩年がもっとも大切であると思う。若い時に欠点のあった人でも、晩年が美しければ、その人の価値は上がるものである。

 守屋淳も対談の中で、渋沢の魅力を一言で表すと、「晩年の円熟した人柄である」と言った。

関東大震災後の83歳のときの援助活動への奔走、排日移民問題への対応など渋沢は晩年まで渋沢であり、また円熟味は増していったのである。

渋沢は、「天意夕陽を重んじ、人間晩生を尊ぶ」を地で行った。

致知編集長の巻頭特集の最後は最後でこう締める。

私たちも年とともに佳境に入り、晩熟、晩晴していく人生を目指したい。

生き方は、年をとればとるほど問われるのである。


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