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【小説】きみにつながる、ちいさなマド。

「もう、梅雨が明けちゃうと思って」

電話のむこうの声は、とても明るい。
声にもしも色があるなら睦美の声はきっと、爽やかできれいなオレンジ色をしているんだろう。

ハルカはそう思った。

「それで、紫陽花?」

尋ねながら、手もとの写真に視線を落とす。

どこで撮ったのかはわからないけれど、紫陽花が大きく映し出された1枚の写真。
今日、帰宅してポストを覗いたら、明るくて薄い色の封筒がそこにあった。メモや手紙は何も添えられず、入っていたのは、この写真が1枚だけ。

睦美から送られてきたものだった。

「そう!綺麗でしょ!ハルカに見せたくて」

電話の向こうで、睦美の得意げな顔が見えるようだった。

2年ほど前から、睦美はこうやって時折、写真を送りつけてくるようになった。

それは今日のように季節を感じる花の写真だったこともあるし、海や山の風景写真だったこともある。
ショウウィンドウで見かけたという、真っ赤なワンピースの写真。
街路樹を彩る、イルミネーションの写真。
あるいは、睦美の気に入ったネイルアートをアップで写した指先の写真だったこともあるし、アスファルトに散らばったガラスの破片の写真だったこともあった(この写真は何?と電話で訊いたら「きらきらして、綺麗だったから」と睦美が応えたことを、今もハルカは覚えている)

今や、ほとんどの連絡はSNSで済んでしまう時代。
LINEやメールでさっと送ることだってできるはず。

なのに、こうやってわざわざ写真を印刷して郵送してくる睦美の行動は、少し不思議だった。

そして、睦美からこうやって写真が届いたときに、つい電話をかけてしまう自分のことも。
変なの、とまるで他人事のようにハルカは思っていた。
「ありがとう」ってスタンプ1つ、送ればそれで済むはず。
だけど、なぜかいつも睦美の撮った写真をみると、彼女の声を聴きたくなった。

「ふーん……まあまあ、綺麗だね」

わざとそんなふうに言う。

「何その言い方。ひっど」

全然気にしてない様子でケラケラ笑いながら睦美が言った。

最近どう?なんて、どちらからともなく、訊いて。
仕事のことや日常のことを、少しだけ、話す。
そうしてしばらく話したあとで。

「じゃあ、またね」

睦美があざやかに言い切って、それきりぷつりと通話は終わった。
いつもこうだ。
睦美は、本当に一瞬だけ、その場を駆け抜けるみたいにハルカの日々に現れて、さっと消えてしまう。

携帯電話を置いて、ハルカは紫陽花の写真を手に、洗面所へ向かった。

洗面台の鏡の右上の隅。
睦美から送られてきた写真は、いつもここに貼りつけている。

今日まで貼られていたのは、黄身が2個並んだ、きれいな目玉焼きの写真。
(春先にこれが送られてきたとき「双子の卵、はじめて見た!目玉焼きも超きれいに焼けたでしょ!」と、睦美がウキウキとした声で話していた)

それを丁寧に鏡から剥がし、マスキングテープで今日届いた紫陽花の写真を貼り付けた。

おいしそうでつやつやした目玉焼きの写真が、あざやかな紫の花になると、なんだか部屋全体の空気が、しっとりとした水気と静けさを帯びた気がした。

「ああ、梅雨なんだな」と、そう思って、でもそれもなんだか不思議な感触だなぁとハルカは思った。

日々道端に咲く紫陽花をいくつも目にしているのに。
じっとりとした湿り気を肌に感じてもいるのに。

睦美から送られてきたこの写真が、その中でひっそりと咲く紫陽花が、他の何よりも深く、ハルカに、今のこの季節を感じさせてくれている。

睦美と実際に会うことは今はもう、ほとんどない。
お互いに仕事が忙しかったり、休みの曜日が合わなかったりしているうちに「今度会おうよ」とも、なかなか言うこともなくなってしまった。

だけど、こうやって日々目にしたものを、見ている景色を、切り取っては送ってきてくれる。
睦美が見たであろう光景。
その写真を見ると、彼女の日々の一部を、ちいさなマドから覗いているような気持ちになることがある。

悲しいことがあったとき。
職場で辛いことがあって泣きたくなったとき。
鏡の隅にふと睦美から送られてきた写真を見つけて、どこか安心するような、ほっとするような気持ちになることがあった。

明日の朝も、きっと。
ここでメイクをして、朝の身支度を整える。
そうして一瞬、この写真を見つめるだろう。

その瞬間のことが、少し楽しみだ。
ハルカはふっと笑って写真を見つめた。

鏡の隅に咲く紫陽花はとても、綺麗だと思った。

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