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継続は力なり?

継続は力なりという言葉。
それはやり続けると結果が出る、
というよりも、
結果が出るまでやり続けるという
執念に近い思想だと思う。

しかしその言葉が通用するかは、
当人がなぜそれをやっているかという
理由の部分にかかっていると思う。
要はそれにより
継続できるかどうかが決まる。
そして、例の理由によっては万人に通用する言葉ではないということが言えると考える。

継続力とは、
「情熱」と「粘り強さ」で成るとされている。
情熱とは、自分の最も重要な目標に対して興味を持ち続け、ひたむきに取り組むということ。
粘り強さとは、困難や挫折を味わっても諦めずに努力を続けるということ。

まずこの情熱の部分において、
現在取り組んでいる物事が当人にとって上記のそれに値するかという懸念。ここが定義から外れていると、恐らく継続力には繋がらない。
外部に言われてやっているようでは、当然ながら満足いくような達成を得ることは難しい。

また、もし対象に情熱があったとしても、
「継続は力なり」という言葉を
勝手に一人歩きさせてしまうと、
「間違った粘り強さ」を生みかねないらしい。
大局の達成のために設定した重要度の低い目標、即ち当初は最大の目標達成のための
手段であるはずの小さな目標まで継続し続けてしまう。
山の登り方はいくらでもあるというように、
最大の目標に向かう上での手段の取り方は
数多くある。一方向にしがみ付いてしまうと、いつまでも次のステップに進めない。

そこでグリーンベレー方式と呼ばれる、
特殊部隊で用いられる考えを人生に採用し、
機転、対応、克服の手順で、
「何度やってもダメなものは次の施策を考案するべきだ」と考える。
要するに現在当人が取り組んでいる小さな目標に対する行動は、「継続する価値のあるもの」なのかを判断するある種の勇気が必要だ。
「間違った粘り強さ」を出さないためにだ。


人はある分野において大きな結果を出している人物を見ると、どうやら神格化したがるらしい。「彼は天才で自分とは違う」
と言った具合に片付けてしまう。

本当はもちろん神などではなく、
天才というよりも職人的な、即ち結果に対する継続力の賜物である場合が多く、
結果の背景にある努力や困難を想像したくない
、またはできないために、
人々は彼を神格化している。
要するに当人にとってその事象に対する
継続力に自信を持てない。

しかしそう言った物事は、
ただたんに当人にとって、上記の情熱に値しないものだ、と考えることができると思う。

「お前は天才じゃないんだ」
と幼い頃言われた人は多いのではないだろうか。もしその天才という言葉を「努力せずに物事を達成してしまう人=神格化された存在」であるとの定義で捉えるのであれば、確かにほとんどはそうではなさそうだ。
しかし、もちろん天才は神ではなく、
「情熱と粘り強さ=継続力を持ってたゆまぬ努力で得た結果と、それに伴った卓越性ある人物」という定義で捉えた場合、
皆にも同じような機会が与えられているかもしれないし、もしかするとその才能に気づいていないだけなのかもしれない。

結論として、「継続は力なり」
を自分自身に応用させるには、
情熱を持てるものに着手して、正しい努力を粘り強くすること。
正しい道で正しい時に正しい努力をするということが、理解されコンプリートされて初めて、「継続は力なり」であると考える。
当人にとってもっともかけがえのないものであり、できれば一つのことに従事すること。
そうでなければ、粘り強い努力の出来やしないと僕は考えている。
教師時代よく、保護者の方々に
「粘り強い努力は必要ですね。」というと、皆さん頷いてくれた。
しかし、「それは面白いくないものには難しいですね。」というと、なんとも納得してなさそうな雰囲気に変わったのを記憶している。
皆、結果を求める割には、情熱の部分を疎かに考えすぎているのだ。

そして、そんな情熱を持てる物事を無理やり見つけようとするのもナンセンスだと考える。
まず僕自身が現在それを持ってはいないので何もいう権利はないが、
何かを始めて小さな興味から、少し立つと大きな興味に変わり、情熱化することもあるらしい。また、周囲の人たちの話を聞いて、外部発信的に情熱が湧き上がってくる可能性もある。
少なくとも、「将来は情熱的に生きれる職業につき、大きな成果を社会に与えるために努力がしたい」と考えながら生き、アンテナを張り続けることが、現在できる重要なことではないかと考える。