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婦人科への疑問(一般男性の立場から)

 とても長くなりがちな説明をできるだけ短く書きたいと思います。できるだけ読んでいただきたいからです。文章の流れをよくするため編集を続けています(24/5/5)

 私は思春期にそけいヘルニアの手術を受けましたがその時に診察から、剃毛、裸での手術など恐怖と屈辱感からトラウマを持ったようです。言語化できず長い時間がたちました。今それに一番近いことは医療の現場、婦人科現場で今も起きているようで、その意識、人間のとらえ方はどうなのか、手あたり次第本を探し、動画を見てきました。

婦人科医師のニュースレターにもコメントを書いています。下にひとつの例を転記します。医学の名のものとに身体への侵襲(皮膚を切る、内臓を取り去る、刺す、調べるなど何であれ身体に操作を加えること)が行われていますがそれは生命体への介入であり不自然の極みといえます。

1 男性婦人科医Aさんへ
男性の暴力に対して怒りを感じられたこと、正直な反応に感謝します。「男女双方への包括的性教育」よいことですね。ところで私は産婦人科医ご自身は物理的肉体を誰よりも見ているとは思いますが性的な活動の重要さをどこまで認識しておられるのか疑問です。内診などのきわめて不自然な行為を強要されるとき人によっては男性の暴力と同じように受取り一生苦しみます。不自然で受け入れられない行為であるという認識はあるのでしょうか。肉体を見ることを許された喜び見ることを許した喜びここから男女の関係は始まり、肉体的なものからより深い美と愛の関係へと飛び立とうと必死に努力するもののように思います。そこにまったくの他人が強制的に肉体を見たりさわったりするのです。それが「間違った」ことである認識がなく強制的に診察を行っている医学が深い意味で男女の愛が成長していくことも妨害しています。わかりますか。男性の暴力に怒りをお感じになるならば、そんな肉体を持った男女の繊細な愛の扱いについて、性教育を自らに行い、決して強制を行わないことをすべての医師に誓ってもらいたいものです。「病気になると脅迫を行わない」「だれもがやっていると同調圧力を使わない」「身体を見せたあとで女性が見せる従順さを利用して、患者を飼い慣らす技術を使わない」「医師同士の監査を行いおかしな行為をする医師に罰則を行う」「古くて非合理なことを行わないよう徹底する(会陰切開、剃毛など)」医師が徹底して性的な成長を貴ぶ姿勢を見せないでいて患者に性教育といっても説得力がありません!



婦人科内診について一人の男性が耐えられないと思うこと

日本独特の電動式の医師のコントロールにより上下に動いたり傾いたりする婦人科診察台に固定されて、診察を受ける動画を見ました。私には耐えられないと感じるものがありました。
その後で「内診」などのキーワードでSNSで検索をして女性がどのように感じているのかが書かれていました。
「屈辱的」という単語という言葉が頻繁に使われていました。
また患者へのアンケートにより診察台に下半身をさらされたまま待たされる時間が一番屈辱的だという答えがあったということも読みました。
医療の診察においてなぜ「屈辱的」な行為を受けなければならないのか、あるいはその行為を感じる方が屈辱的と思うだけで医療なのだからやむを得ないのでしょうか。
私は自分が手術の時に感じたことを重ね合わせて、耐え難いと思うことがありました。私たち人間の半分が、家族が、友達が、みなこういうことを一生の間に何回も絶対に受けなければならないのです。

医師は何と言っているか

医師はよくこういうように言うのです。「私たちは何も思っていないのでだいじょうぶです」「性的対象として見ていませんので大丈夫です」
医師の言葉で頻繁にあらわれるのが「大丈夫」「配慮」という言葉です。

いくつか婦人科検診を勧める動画を見ていました。その中での医師たちは内診などについてどう説明しているでしょうか。多くの場合内診について嫌悪感に対しては答えません。質問に答える代わりに「診察を受けず放っておくと大変なことになる」と答えています。この傾向は書籍でも同様です。すなわち嫌でもなんでも受けなければ病気になるぞ、命が危ないぞ、と恐怖をあおっているかのようです。いやあおっています。
とても嫌なものでしょう、最小限しかしません、嫌なら行わないなど配慮しています、とソフトなことを語っている医師もいましたが大勢は「内診を受けないとひどいことになるぞ」でした。

思春期の少女の診察

以下書籍より思春期の女性の診察の説明よりごく一部をクリップします。


診察の「配慮」というのはこういうことを指すのでしょうか。


なぜ婦人科の診察はとても嫌なものであるのか

さて、機械に身体を拘束されながら、陰部を広げられながらの婦人科の内診がなぜ嫌なものなのか、この質問にたいしてどんな答えがあるでしょうか。簡単に恥ずかしいからでしょうか。恥ずかしいのはどうしてなのでしょうか。皆さんの考えをお聞きしたいものです。それにより昔からこうだからと旧態依然に行いがちな医療を改善するべきだと私は思っています。
身体権という言葉があり、医師は身体を傷つけてはならないのです。それの例外として治療が意味がある場合なのです。婦人科の内診などは身体権に抵触していないのでしょうか。身体を傷つけていない、ただ恥ずかしいだけそうなのでしょうか。

女性の成長と性

私たちそのものの性質を考えてみましょう。男と女という性を持ち一生にわたり性の違いがもたらす豊かさと苦しさとを経験しながら成長していくのが私たちの人生ですね。肉体が成長し感覚が発達し生きて動くものに興味がわき、人間に興味がわき、身体の感覚を楽しみ、思春期には異性に魅かれるようになります。そのあらわれ方は男女で違いますが、特に女性の思春期には自分の身体の変化にともない受動的な期待感のようなものが育ち、ここで他の存在が見る、触れるということに大きな衝撃を受けるようになります。
すなわち見られる、触れられるということは人生の大きなイベントであり成長とかかわっているのです。成長と言うのは異性の他人を理解する、愛する、自分の身体を理解するなどのことです。女性が受動側を担うとき受動的な性質は男女の関係が発展していくうえでとても大切な性質です。見られる、触られることにより心理的、身体的に反応することがとても大切なことなのです。
このような性的な関係のために最も重要な性質を自分の望んでいない他者によって引き起こされたらどうなるでしょうか。何らかの理由で拒否できない状況となり身体を見られたり接触をうけたりするのです。自分の人間として好悪と関係がなく身体的心理的反応が起きることになります。このことが「自分が望まない反応を強制して起こさせられている」という状況になります。
このようなことが起きるのは異性の暴力による場合、それに医療の現場で起きることがあり得ると思われます。これが屈辱的と表現されていることのなかでも最も大きなことではないかと思うのです。
そして心理的に傷を負うことになります。
つまり内診などのいわゆる医療行為が心理的外傷を与えるならば、侵襲をすることになり、身体権の侵害になるのではないでしょうか。
とくに女性は、それに思春期の世代の男女は心理的な侵襲をしないよう大切に扱われなければならないのです。

婦人科の行為の根本的な侵害行為

他者が身体を見ること触れること、それにある姿勢をとらせることなどは身体的な傷ではないにしても侵襲であり人間関係の成り立っていない他人が行うことは犯罪行為に等しいと思います。思春期の状況を上に書きましたが一生にわたり女性の心はそのような性質を持ち続けるのでしょう。
医師であっても内診などは身体権を犯す行為をしているということを理解して医療行為にあたるべきではないでしょうか。
診察が必要か不要かという議論などではなくて基本的な性質として診察が女性の成長に介入する行為を行っているということです。見る、触れるという行為を自分が好ましく思った異性に許す、という決意や意志を持つことは女性の成長の大切な段階です。逆に許さないということも大切なことなのです。ところが医療の名のもとに診察の名のもとに普通の男性が行わないような酷いことを無遠慮に冷酷に行っているという現実があるのです。私が許せないと思うのはそういったことが起きていることさえ意識していない医師がいるということです。
「医療は人間に心身ともに傷をつけてはならない」のです

なぜ「屈辱的」なのか

最後にもうすこし屈辱の意味を深めたいのです。皆さん読者の考えをお聞きしたいところです。

潜在意識の動き
見られる、触れられるということを期待するのは受け身の性において必要な心理的性質です。このことは先に書きました。

顕在意識では全くの他人と理解している相手が自分が許せる限界を超えるような観察や接触行為をしてくるとき、本能的に受け入れようとする潜在意識と、他人であり意識していないという顕在意識の間で混乱が起きるかもしれません。

さらに不安感もあり、そして検査では身体に傷をつけることも多いです。信頼も好意もない人間が傷をつけてくること、それを自分が受け入れている状況は文字通り「屈辱的」ですね。

医師による患者の飼いならし

私は産婦人科の手記(多くは昭和の50年代くらいまでのもの)をいくつか読みましたが「内診をしてしまえばだいたい大人しくなる」「内またをひっぱたいてもっとちゃんと開けと言った。後で感謝されるのも医師というものである」などさまざまな言葉にあらわれているのは、女性が性器を見せて触れられてしてしまうと従順に診察に従うようになるということで、それを喜んでいる医師の姿です。
私は個人的にこれを「飼いならし」と言っています。人間の潜在意識を乱用しているのではないかと、思うのです。そのような親密さは好きな異性との間に生まれるべきものです。違いますか?
医療の場において意識してかしないでか医師がこのような女性の反応を知っており使っているのではと産婦人科自身の発言から考えるようになりました。「人間的に弱みを握っているのだから診療方針についてもその後の結果についても厳しく追及されることはまずない」そのように見下したように思える姿勢です。

医師は性的興味を持たないか

これについて「持たない」と明確に答えるより次のような答えが多いようです。「診察はとても忙しく、見落としはないかに意識を集中しているので性的な興味を持つ暇がない」「顔も覚えていない。たくさんの患者個人に興味はない」

その一方でこのようなことを言う医師もいました。身体はそれぞれであるが、性器が美しい、立派と感じることがある。気品のある身体と診察態度、などと書いている女医も居ました。「陰毛の形を記録している医師もいる」という記述もありました。
医師たちはすなわち性器を鑑賞する余裕は多少あるように思われましたがどうなのでしょう。性的な対象とは見ないということは少なくても書かれていること、動画などでは100%です。しかし身体をある種の美的に眺めてコレクター的に鑑賞して楽しみにしていることは絶対にないのでしょうか?

人格を持った恋愛対象として見ないし性交などの対象ではないが、性器をふくめた身体を眺めてそこに触れた自分の感触などの記憶を蓄積していくこと自体は喜びなのか、さらに手術して身体内部まで調べることの喜びがあるのか。これこそが患者を人格のある存在として見ず、身体にだけは興味を持たれて触れられるという極めて屈辱的な出来事と思われますがいかがでしょうか。

医師が性的興味がないということが良いことなのか

産婦人科の医師が性的な対象として患者をみないというのは、日常業務でそうなっていくものかもしれませんが、先ほど述べた本能的に受け入れようとする潜在意識の動きからすると、見て、触れるのに「私にはなんら興味関心はない。冷酷さを感じる」というように逆に患者の潜在意識は受け取るかもしれません。温かみをもった人間として、患者の示す反応も理解し、そのうえで見下すことはない。こういうあり方にはなれないものなのでしょうか。冷酷に身体を調べ、性欲も持ち反応する身体を持った患者を見下し、苦痛だけを与えるというあり方しかないのでしょうか。

男性としてこうなってほしいという一つのヴィジョン

産婦人科医師は興味を持っていることを認めてください。そして侵襲行為であることも認めてください。医師と患者を分け隔てる最大のものは不誠実さです。不誠実は手術などの結果だけでなく診察態度そのものにかかわっています。
そのうえで自分は訓練を受けていること、また人間と性について理解し患者を支援していることを明確にしてください。
患者は自分の身体や深層心理など理解し自分の性的反応も認め、女性としての自分の性質、自分に独特なものも理解を深められるよう卓上の教育もありますが、男性と健康的に付き合い、けっして傷つかぬようふるまえるよう成長をしていったらよいですね。
男性も同様にまっこうから自分をとらえられるよう肯定的に学んでいけたらよいですね。そうすれば私もトラウマにならないで済んだはずです。

繰り返しになりますが、医師は性的な対象として見ていないというだけでは不十分で、人間の理解を、自分の私生活も含めて深めていっていただきたいと思います。

医学史より(最後にかえて)

医学史の書籍より引用をします。医師個人もさることながら、西洋医学のなかで、産婦人科の特殊な性質が垣間見えるような叙述がありましたのでここに画像を置きます。

「産婦診療を男医に解放した。このことは実に産科学会における革命であった。医師でありながら男であるために正常分娩その他婦人患者を多数に診療し得ることは過去にももちろん、その当時でもあり得ないことであった。だから彼らはあたかも干天に水を得た魚のごとく産科演習の経験とその知識の吸収にがつがつとむさぼるように研究に励んだのである。私はその当時の男医の心のうちがまざまざと目の前に見えるような気がする。長い長い年月、数千年又はそれ以上全く女性の手に握られて男子の手の届かない秘密の宝庫として残されてきたこの暗黒の領域に親しく鍬を入れて、これをさぐり得る機会を得たことを彼らが如何に歓喜したことか」

これを読んでみて産婦人科とは何なのか、西洋医学とは何なのか味わっていただきたいです。
不十分なものですが、一日で書ける限度となりました。お読みいただきありがとうございます。


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