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北のアルプ美術館

かつて住んだ地域に「北のアルプ美術館」という小さな美術館がある。北欧を思わせる洋風な建物で、四角い白い窓が並び、煙突が屋根から出て、庭には白樺の木が風に揺れている。少し豪華な個人宅にも見えるし、または美術館というより、記念館のようでもあり博物館のようでもある、そんな建物だ。

1953年から1983年の間に発行されていた「アルプ」という山の文芸雑誌を所蔵し、著者である串田孫一の作品や執筆道具などが展示されている。思慮深さを感じさせる穏やかな文章と、それに添えられている柔らかなタッチの絵は、串田孫一の自然や生活に対する優しく誠実な思いを想起させ、ざわついた自分の心を沈めてくれる。ちなみに文芸雑誌とは、

雑誌の一種で、書評や評論、小説・詩歌・随筆などの短い作品を中心に掲載するもので、同人の間で刊行されてきたものや、個人や出版社などが発行人となり、原稿を文芸家に依頼したり、一般から募集するものなどがある。内容はいわゆる「文学」だけでなく、美術・音楽・漫画・旅行・料理・哲学・思想などにおよぶものもある。」(引用:wikipedia)

だそうだ。

先日、Coyote(出版:スイッチ・パブリッシング)という雑誌を読んだ。それ自体は旅をテーマにした雑誌だが、僕が読んだ号はアルプの著者・串田孫一に関する特集の号で、僕が北のアルプ美術館で購入し、自分の部屋で大切に取ってある雑誌のひとつだ。この地域に住んでいたころ、北のアルプ美術館の前を通ることは何度もあったけれど、実際に展示をゆっくり見たのは一度しかなかった。その際に購入したものである。久しぶりに北のアルプ美術館を話を読み、当時の気持ちが蘇ってきた。

アルプは山に関するエッセイや体験談を取り扱っていた(と、僕は理解している)。創刊当時、多くの登山雑誌は登山技術や登山ルート、装備について書かれているなか、アルプはそれらを載せない「文芸雑誌」であった。彼の文章は穏やかであると同時に、山の中で感じる不安・実生活との乖離・自然の強さと美しさ・人の儚さ、そしてそれらから感じる哲学など、登山者が感じる気持ちを丁寧になぞってくれ、そして彼自身の思いをそこに乗せてくれる。それが僕のざわつく心を静かに収めてくれる安定剤のような作用を持っている。

最近、山に関するエッセイを見かけなくなった。僕自身、そういった情報から離れているせいだろうか。変に思うかもしれないけれど、かつて、登山者はみな文芸作家であった、と僕は思っている。

歩き、食べ、雨の中でもテントを張って、高山帯では守らねば消えてしまう自分の命を明日へ繋いでいく作業である。それは登山者自身が、登る山やルート・日程を決めることで始めた物語であり、その自分で決めた物語をなぞりながら、その物語に想定外の出来事が追記されたり、そこで感じる気持ちをその物語に乗せたりする作業でもある。必要にも迫られず、誰の目も気にせず、見せびらかすでもなく、粛々と命を翌日に続けていく作業は、「生きる」という、普段は認識すらしない切実な問題に自ら進んで向き合い、その中で物語やエッセイを書くことに似ていて、それ故に登山者は文芸作家であり、時に哲学者だった(往々にして”偏屈な”哲学者になりがちだけれど)と、僕は思っている。当時はSNSもそれほど流行っていなかったため、登山者は自身の物語の途上で、「誰かに見せる」という他者の視線を気にすることも少なく、真に物語に入り込めたのかもしれない。

学生の頃(と言っても12年前くらい)より、古本屋をめぐるのが好きだった。特に好きだったのは、雑誌のバックナンバーや廃刊になった雑誌を見つけることだった。古い雑誌に書かれているエッセイは、登山や冒険の話のみならず、当時の人の気持ち(時には古い道具で生き抜いていく様など)を時代のギャップを感じながら楽しむことができた。真剣に登山を向き合い、限られた道具のなか挑戦していた人々の熱量が、紙面から発せられているようだった。

そんな学生の頃、山岳部だった僕は部室の掃除をしていて数十年前の山岳部の冊子を見つけたことがある。冊子と言ってもB4コピー紙を半分にして作った簡素なものだが、今では50歳を越えている人々が学生の頃に、同じ部室から出発して成し遂げた冒険の一編であると思うと、ワクワクしたのを覚えている。
テントを持たずに厳冬期の白山(石川・福井・岐阜)へ登る話だった。雪洞を掘りながら、メンバー達と2週間ほど山に入っていたと思う。うろ覚えだが、覚えている一説に

稜線に上がった途端、いく峰をも越えてきた雪風が、僕の右頬にキッスした。

といった、今、書いていても恥ずかしいくらいの文章が載っていた。
僕は当時の友人達と「さすがにこれはクサいよな!」言いながら笑っていたのだけれど、それと同時に、その登山から帰還しキザな文章を真面目に書いていた数十年前の学生と、当時学生であった自分を重ね、その技術力と熱量、率直さに心揺さぶられたのを覚えている。文章はクサいけれど、それでも、雪の中を歩き、やっとの思いで稜線に顔を出し、山の反対側を初めて見ると同時に風を感じた瞬間の気持ちがありありと浮かんでくる。その彼の、真面目に書いている顔すら、僕には浮かんでみえたし、その時彼は文芸作家であった筈だ。

僕らは、文芸作家の気持ちを持って居続けられるだろうか。商品を売るためのブログや、SNS(noteもSNSの一部と言えるけど)でたくさんの文章が溢れるなか、自分の物語と気持ちを、真面目に書いていられるだろうか。むしろ、誰かに見せる前提でなく(結果的に後から見せることは別として)、登山や冒険をしていけるだろうか。他者の目を通さず自分を見つめていられるだろうか。

そんなことを、串田孫一の文章を読みながら考えていた。

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