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特別な日常を生きている

生きるのも日常、
死ぬのも日常。

昨日のテレビ『A-Studio+』の鶴瓶さんの口上。

 桂米朝さんの葬儀に
どうしても行けなくなった鶴瓶さん。

鶴瓶さんに桂南光さんはこう仰られたそうです。

「米朝も言ってたけど、
生きるのも日常、死ぬのも日常。
そんなことは気にしなくていい」

この言葉を聞いて思ったのは、
死ぬということを、とても「特別扱い」してたなということ。

確かに人が死ぬということは、
とても大きな、ショッキングな出来事です。
でも人が死ぬのは「日常」なんです。

そうだ!生きるのと同じで
誰もが必ず通る道。

ではなぜ人の死を「非日常(特別)」に思ってしまうのか?
それは「人の死」そのものではなく、
「誰が?」「どうして?」
という部分にショックを受けてるのではないか?

知人であったり、好きな芸能人の訃報。
あとニュースなどで初見の人ではあっても、亡くなった原因が悲惨だとショックを受ける。

しかし今、毎日入ってくる情報の一つである
「新型ウイルスで亡くなった方の人数」
そんなに…と驚きはするが、胸を痛めるほどではない。

これは一人の人に焦点を当てて、
特別扱いしていないからではないか?日常になっているのだ。

いつ死ぬかなんて、本当に誰にもわからない。
だからこそ、大切な人や自分が死を迎える時、後悔しないように日常を過ごさなくてはと思う。

ではどうすれば後悔しないのか?

【日常】とは
常日頃。普段。
 【普段】とは
いつもその様子であること。
特別ではないこと。
 【特別】とは
普通一般のものとは異なる状態。

 鶴瓶さんは、米朝さんの葬儀を「特別扱い」したことになります。
普通なら誰だってそう考えますよね。
でも、米朝さんは「日常なんだよ」と。

「特別」を大物扱いしすぎている

「特別ゲストってこの人?もっと大物くると思ってたー」
みたいな(笑)。こういうことって日常茶飯時だと思うんです。

でも自分は、

「特別な日」のために辛い辛い日常を何とか耐えている。


「特別な物」を買うために働きづめの日常を送っている。

しかし延々と続く日常と打って変わって、
「特別」は一瞬で過ぎ去る。
そしてまた新たな「特別な日」までの日常を潰して過ごす。

でも、その「特別な日」を迎える前に、
自分は死んでしまうかもしれない。

死後の世界があるならば、ずっと後悔し続けるような気がする。

 私は自分の人生、

「死ぬために生きている」

という考えです。
いつ死んでも後悔しないように、
「いつもその様子である(日常の意)」の“その”部分を
可能な限り“楽しい”に置き換えるよう心がけています。

生きるのも日常。死ぬのも日常。

とても素敵な言葉です!鶴瓶さん教えてくれてありがとうございます!

死ぬことが「特別」であるのなら、
生きることもまた「特別」

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