摂食障害の治癒
摂食障害の「治癒」について書くnoteです。精神疾患は心の病気です、目に見えないからこそ「治った」という確証や基準も曖昧で、不安の一因だと思います。
maro no talk というLINEサービスでいつもお話しして下さる方から、こんな意見と質問を頂きました。
摂食障害の「回復・完治」の意見と今の私(2年前に寛容)がどのように考え過ごしているかをシェアします。
回復の基準
私は「健康を受容・維持」ができて「回復」と認識しています、継続ができて健康と言えると思うからです。
現在の私の事ですが、食事に美意識やルールを結びつける事なく「無意識」で健康を維持できる自分は「回復」したと思えます。
無意識というのも健康を完璧に追求・維持しようとするのではなく、時にある「適当・曖昧・過剰」も受け入れられる状態です。
"生理(月経)回復" や "標準体重に戻った" というラインを回復としている方を見かけますが、私の中では「通過点(目安)」と考えています。これらを継続させる「心と体」が回復であり、健康と認識しています。
体の数字や見た目が「自分の許せる範囲」に回復しても「範囲」が指すのは本当に健康の範囲か?それとも偏りが残る範囲か?心の考え方がどこかに執着していては、その上で築く健康は脆いように思います。
回復期で大切な事として再三書いてきた「心と体のバランス」というのもここに当てはまります。心に体は馴染んでいき、体に心は馴染みます。
心が健康(変化)を受け入れられる自分でなければ、体もある一定のラインで止まってしまうので「どちら(心と体)も回復させる事」が私なりの「回復の基準」のアンサーになります。
治る(完治)ってどんな状態?
心は可視化(目に見える)できないですし、心の状態に数値や基準もありません。当事者も完治・回復にイメージや確証が難しいと思います。心と体のバランスを維持できる状態を具体的に書いていきます。
先程書いた通り "無意識" にも "健康を維持(守る)できる状態" なのかと思います。
具体的に言えば「生活の優先順位の秩序(順番)」が「見た目・食事」に偏っていないか?どうか?です。
摂食障害の渦中(拒食症)の優先順位を並べてみます。
①と②の割合が非常に大きいのです。交互にやってくる感情のサイクル・ループが感情や行動を支配します。
①の "痩せたい気持ち" は生活に支障があっても継続・維持したい優先事項であり、①⇄②のサイクルによって日常生活の業務(学校や仕事や家事)の行動が変わります。お金や時間なども、①や②の為に割く事が多くなります。
体に栄養がない事から、体力も精神面も不安定になります。他の事を考えたり、行動する事もできません(体のメカニズムでこういう状態になります)
(あまり意識していませんが)今の私の優先順位を並べてみます。
単純化した順位なので、雑把です。①の "楽しく過ごす" も365日が楽しい訳ではありません。(完璧に)充実しているとも思いません。でも、これまでの経験から得た考え方の「普通の幸せ」があり、これを守るようなイメージです。大袈裟な事は何もしていないです。
正直…この優先順位の中に「健康管理・維持」は含まれていません。なぜなら「大前提(土台)」なのと「勝手にバランスが取れている」からです。
意識しなくても、優先順位に割り込まなくても、本能で取る行動ってありますよね?
例えば「尿意→排出」「暑い→汗をかく」とか無意識の行動(本能)です。この行動の為にわざわざ何かする事もありません。「喉の渇き→飲み物を飲む」から「水が溜まる→排出」になるだけ。
食事に含まれる水分なども、汗で流れる水分になっていて「何かと何か」が繋がっていて、理屈というよりメカニズムで動いて働いて機能を保っています。
すごく複雑な事言いますと「理由の理由に理由はない」……。複雑ですね。
生きる上での土台は体にありますが、その土台にあるメカニズムを追求しても理由はなくって自然であり本能である、これに尽きます。
理由を付けたり、何か変わるとするなら「心(感情)」じゃないですか?生活に優先順位があってそれは健康の土台があって築かれるものです。
摂食障害という心の病気は「土台(体)を心(理由)でコントロールしている」と捉えられます。
優先順位そのものの「価値観・存在」が自分にとって「どんなものか?」が変わって生活や感じる感情に繋がり、偏りが平になり健康を無意識で継続(生活)できて「完治」なのではないでしょうか?
記憶の定着(トラウマ・癖)
質問を送って下さった方の仰る通り、記憶は消える事はありません。過去の積み重ねで今が在る為「元の自分」に戻る事はできないと考えています。
それが「ダメな事」と思うか?思わないか?正直、捉え方の問題なのかもしれません。
私は摂食障害になった "おかげ" で今の私があって心と体を労る方法を知れたと思っています。摂食障害の"せい" で嫌な思いも苦しい思いもしたけれど"おかげ" の恩恵があります。
"せい" で付いた嫌な記憶を思い出すより "おかげ" で学べた教訓を活かすよう心の捉え方を変える方が「楽」だと思っています。
人は皆んな過去に戻れないし、時間は巻き戻せません。後悔や失敗を繰り返し、その経験から「学び」そして「成長」して今を築いているはずです。人類共通の時間軸ですよね。
摂食障害だけが、今後の記憶に悪影響が出ると言い切る方が難しいと思います。どんな経験も「改善」の余地があって「学び」がある。捉え方次第では「財産」に変わると信じています。
質問者様の言葉をお借りします、白いキャンバスに黒いシミがついてしまった。確かに、黒く染み付いて薄くなったとしても元通りにはならないですね。
でも、何が違うか?それを放置している状態か?白く塗り替えようとする状態か?キャンバスに向き合う自分が変化します。
キャンバスにどんな色を乗せていくか、何を描くか?それは私達の自由です。黒いシミを活かした絵を完成させたって良い訳です。
そうなってしまった事(摂食障害の経験)は変わらないけれど、それをどうするか?活かすも腐らせるも、放置するのも塗り替えるのも、本人の匙加減でしょう。
摂食障害という病気を治療して良くなりたいと向き合っている回復期を迎えた質問者様は、黒いシミがついたキャンバスに何を塗り、どう描いていくか向き合っている時間。それって既に質問者様の変化であり、前進だと思うんです。
こういう考え方もあります。黒いシミがついてしまったから誤魔化すのに、手っ取り早いのは「黒で塗りつぶす事」としてしまう事。
黒く塗り潰す事が「良いか悪いか?」ではなく、こういう手段もあって選ぶ人が実際にいる中で、それでも白いキャンバスに何か描き足そう、黒いシミは限りなく白に塗り替えてみよう、そう考えているという事。
これは質問者様の選んだ選択で「いくらでも自由に描きたせる余白がある」と、気が付いたという事。素晴らしいと思います :) (本人にお伝えしています)
(理想の)"元通り" にも "綺麗な状態" に戻れないのは、人間皆んなどこかしらの時点から比較したら同じ悩みがあるはず。子供の時は砂場で遊んでいるだけで楽しかったけれど、今はそうもいきません。
比較するには差があるかもしれませんが摂食障害という経験も「ブランク」とか「汚点」とかじゃなく「経験の一つ」って認識して、そこから新しい自分になり元の自分よりも成長したと捉えても良いと思うんです。
回復しても、心のどこかで元の自分を取り戻そうとしては摂食障害になった自分が存在していて、もしかしたらまた同じ道を辿る事になりかねません。実際に回復期を何度も経験して再発を繰り返してしまう方も多くいらっしゃる病気です。
元の自分だったから、摂食障害になるまで追い込んでしまったんです。それを手放す時間を過ごす今が回復期、それを経た自分は "悪化" ではなく "進化" で "後退" ではなく "前進" でしょう。と、私は思っています。
これらを受け入れて、継続する事こそ「摂食障害の治癒」だと思います。
最後に
どうか、摂食障害の渦中で悩む方も回復期を過ごす皆さんも自分自身を否定せず捉え方を変えて誇りに思ってあげて欲しいと願います。
目の前の現実はそう簡単に都合良く解釈できるほど良いものではないのも当事者だった私だから痛いほど理解できます。ものすごく、うざったい事を言っているかもしれません。
ですが、悲観的に物を見ようとするといくらでも悲観的になれてしまう。反対に、楽観的に物を見たらそう思えてくる事もあります。
摂食障害は「一時的な感情」ではなく「病気」なのでそれなりに向き合う時間も労力も必要です。治るの?これ、乗り越えられるの?そう思うのも自然です。
病気と向き合いながらも、これまで自分が背負ってきた生き辛さや苦しみの理由を知るチャンスがあると思います。知らないままより、知った今やこれからは「どうやって付き合っていこうかな?」と考える選択肢が増えたという事です。
完治や回復の基準はバラバラかもしれませんが、共通した時間の流れの中で皆んなも何かしら「後悔・失敗」を繰り返して「学び・成長」して今を築いています。私も質問者様も、読んでくださっている方もその中の1人なのだと思えば、摂食障害だけが「治らない」とか「人生の終わり」ではない事は分かってもらえたら嬉しいです。
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