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生きづらさについて(人望と知性)

 まず、基本人は利己的である。そして、自分も他人も利己的だから生きづらいのである
 私の場合、生きやすさのために人望を旨とするのなら、知性を犠牲にする。対してそれのために知性をそうするのなら、非難や軽蔑を覚悟する。なぜと言うに、人望はまさしく私心を「捨てること」であって、そして利己的な人間はそういった人間を仲間と見なし争おうとしないからで、対して知性はまさしく人間が利己的であるが故に、その性質をもって作為的にも無作為的にも「個人の欠点や弱点や嫌な点」を露わにするから利己的人間は争いを仕掛けてくるのである。(利己的だから)
 私の場合、人望の行使というのは相手の心意を「ただただ量ることだけ」だと思う。対して知性の行使というのはまさに相手を「だしぬくこと」でしかないだろう。というのも、人間は「自分の意向に適わないから小言を言う」のであるし、人の心意を量るというのは必ずしも「その意向に適わない」なんてことはなく、たとえ相手の意向にそぐわなくとも「その行為自体がもうすでに相手の意向に適っている」から、人の私心の暴走は絶対起こらないのである。対して「だしぬく」というのは自然法則である「万物の二面性」を利用して「相手の欠点ばかりを見つけ出して」、そうして相手の意表を突くということなのであるから、それはいかにも「相手の意向を削ぐこと」でしかないのである。というのも、実のところ正解よりも不正解の方が簡単に導き出せるからである。
 そして私の場合、生きやすさのため相手に帳尻を合わせるのなら点々とした小さな不幸の後に大きな幸福がもたらされるだろう。だがしかしそれのために自分の意向ばかりを優先するのなら小さな幸福のにちに大きな不幸を被ることになるだろう。(まあこれは実体験である)実際人は、一定の水準を下回らない人間関係の上でしか生きていけない。そして、人は他人がもたらす何かしらによって、自分はその上で生きていることを実感するのである。そしてさらに、その人間関係に対する満足の標準の差異についてだが、実のところそれというのは(悪い言い方だが)「自分のこの固有の能力ではより多くの他力が必要だ」と自覚するか、「自分は一人で大丈夫だしいや却って人と連携することにわざわざ苦労するのは面倒でしかない」と思うかでしかない。
 まあともあれ、人間の生きづらさを解消するには適切な人間関係しかないのだが、そのためにはある程度は知性を犠牲にしなくてはいけなく、それというのは実のところ結果的には相手をおだて上げることなのだが人間は利己的だから実際は知性を犠牲にすることは至難であるが故に、この世は生きづらいのである。

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